2024年11月22日(金)

スポーツ名著から読む現代史

2023年12月2日

 大会3日目、グラウンドへの開閉扉に通じる上り階段に寝そべり、わずかな扉の隙間から試合の模様を見守っている一人の選手がいた。その後ろ姿が新米ライターの心に強く引っかかった。「なんと大きなお尻だろう」。尻ばかりでなく、体全体の造作も他の選手とは違ってデカかった――。

 それが野茂との最初の出会いだった。野茂は隙間から観察していた試合が終わると、次の試合に先発し、完投勝利を収めた。

 野茂はこの時、社会人2年目。前年の秋から自分のものにしようと取り組んできたフォークボールがようやく身についてきた時期である。持ち前のスタミナとスピードボールに加え、一級品のフォークボールが武器となり、面白いように打者を打ち取ることができるようになっていた。

原点は「速い球」

 野茂が野球と出会ったのは、小学校に入学したころに遡る。野球好きの父・静夫さんとのキャッチボールで野球を始め、中学時代は投手。高校進学に際し、甲子園の常連校のセレクションを受けたが不合格となり、野球では全く無名の大阪府立成城工業高校に進んだ。

 「速い球」に憧れ続ける野茂は、自分で工夫を重ね、上体を大きくひねる独自の「トルネード投法」を身に着けた。<静夫は「(成城工高の)監督さんが英雄のフォームをいじらずに自由に投げさせてくれたのが、良かったんやと思います」と、感謝している。>(125頁)

 高校時代、1度だけ注目されたことがある。2年の夏、甲子園の大阪府予選2回戦の生野高戦で完全試合を達成した。「粗削りだが、あの速球は魅力的」と、高校3年秋のドラフト会議を前に、いくつかの球団から誘いの声がかかったが、静夫が断った。<「英雄はメチャクチャ気が弱くて、あんなもんがプロでやっていけるわけがないと思ったんですわ」>(126頁)

運命の1球

 プロに代わって静夫が勧めたのが社会人野球だった。高校の先輩の選手がいる新日鉄堺から声がかかり、すんなりと入社が決まった。1987年のことだ。その1年目、「社会人で平々凡々と野球をやろう」と思っていた野茂の「運命」を」変える1球に出会う。

 87年6月26日。大阪・日生球場で都市対抗野球の大阪・和歌山地区の第3代表決定戦が行われた。本戦出場への最後の1枚を争い、大阪ガスと対戦した。

 5-6と1点リードされた八回、新日鉄堺はルーキーの野茂をマウンドに送った。4番、5番打者を打ち取り、2死を奪ったものの、続く6番打者への初球、内角速球を左翼スタンドに運ばれた。チームは5-7で敗れ、都市対抗出場を逃した。


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