続く2回戦の富士市代表、大昭和製紙戦は延長十七回を一人で投げ切り、14三振を奪う力投を見せた。投球数は223球にのぼり、打線も野茂の力投に応えて2-1でサヨナラ勝ちした。3回戦は優勝した川崎市・東芝打線につかまり、二回途中で3失点KOを喫したが、野茂の快投は関係者に強烈な印象を残した。
悔しい経験を重ねたキューバとの真剣勝負
フォークボールという、まさしく「伝家の宝刀」を手にした野茂を次に待ち受けたのは国際大会の大舞台だった。88年8月、イタリアで開かれた第30回世界アマチュア野球選手権で初めて日本代表のユニホームにそでを通した野茂は、翌9月のソウル五輪の代表にも選ばれた。この時はチーム内で5~6番手の位置づけだったが、重い速球に加え、鋭いフォークボールは当時世界一だったキューバの強打者にも通じることが分かった。
野茂は88、89年の2年間で全日本のユニホームを着てキューバ戦に6試合登板、救援登板が多く、勝敗は野茂自身の成績というわけではないが、チームは2勝4敗と負け越した。野茂のキューバ戦の成績は27回を投げて自責点12、防御率4・00。野茂にとって、手ごたえを感じた半面、悔しい試合の方が多かった。
著者は後に、野茂からこんな言葉を引き出している。<「キューバとの対戦は非常にいい経験でした。キューバ相手なら打たれても納得するんです。自分も思い切り投げて三振を取ろうと思うし、向こうも全身全霊をかけてバットを振ってくる。投げ甲斐があるんですよ。三振を狙うあまりホームランを打たれたりしますけど」。>(151頁)
世界にはすごい選手がたくさんいる。野茂は国際大会を通じてそう思ったはずだ。日本のプロ野球で1年目から頂点に立ち、国内のプロを相手に圧倒的な成績を残し続けるうちに、アマチュア時代に体験した真剣勝負の続きを味わいたい――。こんな思いが野茂を大リーグに駆り立てたのではないか。
日本のプロ野球で78勝(46敗)、大リーグで123勝(109敗)の計201勝の記録を残した野茂。日本人大リーガーのパイオニアとして歴史に名を刻んだ功績は改めて説明するまでもない。その出発点ともいえるのが新日鉄堺でのフォークボール習得と、国際舞台での真剣勝負の経験こそがメジャー挑戦の大きな要因となった。鉄矢の著書を読んで、長年抱いていた謎が氷解した思いがしている。(文中敬称略)