2024年5月7日(火)

スポーツ名著から読む現代史

2023年10月7日

 慶應義塾高校が連覇を狙った仙台育英高校を下して107年ぶりに優勝を飾った第105回全国高校野球選手権大会。両校の見事な戦いを見て、書き残しておかなければと思った一冊がある。2004年から3年にわたり、優勝、優勝、準優勝と、夏の甲子園の主役として君臨した駒大苫小牧高校の栄光と挫折を克明に記録した『勝ちすぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇』(中村計著、2016年、集英社)だ。

駒大苫小牧が2004年に甲子園初優勝を果たし、ナインに胴上げされる香田誉士史監督(時事)

 駒苫は04年に史上初めて深紅の大優勝旗を北海道に持ち帰り、05年に史上6校目となる大会連覇を達成。さらに06年にもエース田中将大を擁して3大会連続決勝戦にまで勝ち進み、早稲田実業には引き分け再試合の末、敗れたものの準優勝に輝いた。だが、その栄光の裏側ではさまざまな不祥事が相次ぎ、自壊するように王国が崩壊していった。

 指導者による体罰、部員らによる飲酒・喫煙など、他の高校でも起こりえる不祥事が「日本一」の野球部に相次いだ。弱小チームだった時代には見過ごされていたかもしれない不祥事が「事件」として大きく伝わった側面もある。スポーツライターとして多くの球児と指導者を取材してきた著者が栄光と挫折に揺れた駒苫の監督らに密着取材、心のひだまで追った労作だ。

 慶應義塾と仙台育英両校が同じ轍を踏むことはないだろうと信じたい。だが、競技の枠を超え、駒苫の挫折は教訓として語り継いでいく必要がある。

雑草だらけのグラウンド

 駒苫を栄光に導いたのは大学を卒業したばかりの新米監督、香田誉士史だ。1994年秋、商業科の教職資格取得のため卒業を1年延期していた駒澤大学5年生の香田は、駒大野球部のドン、太田誠監督から「苫小牧にある付属高校で野球部指導の手伝いをしないか」と声を掛けられた。

 駒苫は1964年に開校し、その年から野球部もできた。3年目の66年夏に早くも南北海道代表として甲子園に出場したが、初戦敗退。その後は道内でも万年Bクラスに低迷していた。

 開校30年を機に、高校側は野球部を強化しようと、太田監督に指導者の派遣を依頼し、選ばれたのが香田だった。香田は九州・佐賀の出身。佐賀商業高校時代、2年夏から外野のレギュラーを獲得し、甲子園にも春夏通じて3度出場している。

 大学ではレギュラーになれなかったが、研究熱心さを買われ相手チームの分析などを任された。在学中に母校佐賀商の臨時コーチを務め、94年の第76回選手権大会で佐賀県勢として初の全国優勝に導いている。

 香田の夢は佐賀商の監督になることだったが、北海道で経験を積むことも無駄にはなるまいと津軽海峡を渡る決意をした。学校の下見を兼ねて初めて苫小牧に足を運んだ。94年の10月だった。

 野球部の部長がグラウンドで待ち受けており、部員に集合をかけた。約30人が香田の周りを囲んだ。

 ばらばらのジャージを着て、髪も伸ばしていた。グラウンドは雑草が生え茂り、バッティングケージのネットは破れ、鉄枠も錆びて曲がっていた。バックネット裏の監督室はゴミだらけで、足の踏み場もない。

 <香田は、これまで自分が何より大事にしてきた野球を汚されたと感じた。(略)「おまえら、野球部じゃねえよ」>(23頁)。捨て台詞を残してホテルに帰ってしまった香田を石塚と部員たちが訪ね、何とか引き留めた。

 <暫定的ながらも指導を引き受けた香田は、まず挨拶を徹底させるところから始めた。朝、他の先生と一緒に正門に立ち、部員がきちんと挨拶しているかをチェックする>。放課後には<「応援してくれる人を大事にしろ」と、学校がある美園町内のゴミ拾いを』頻繁にやらせた>(26頁)


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