2024年11月22日(金)

スポーツ名著から読む現代史

2023年10月7日

涙雨から始まった快進撃

 95年、香田は社会科の教師として正式に採用された。野球部の最初のシーズン、駒苫は春の支部予選、夏の支部予選とも2回戦で敗退した。<すぐに勝てるほど甘い世界ではないと思いながらも、香田にはショックだった。「2年我慢すればいい」という思いとは反対に、とことんやってやろうという思いも芽生え始めていた。>(36頁)

 就任して2年目の96年夏、駒苫は夏の大会で南北海道大会に進出。香田のチーム作りは徐々に成果を上げつつあった。

 7年目の2001年夏、ついに甲子園にたどり着いた。南北海道大会で初めてベスト4に進出して勢いづき、決勝で名門・北海を13―3の大差で下し、学校としては35年ぶり、香田には監督として初の甲子園出場を決めた。甲子園では愛媛の名門、松山商に6―7で惜敗し、監督初陣は黒星発進となった。

 翌02年秋、駒苫は圧倒的な打力で秋季大会を制し、翌春のセンバツに初出場。またも初戦で敗れたが、転機となったのは03年の夏だった。春に続いて甲子園の土を踏み、大会2日目、岡山・倉敷工と対戦した。打線に火が付き三回まで大量点を奪って8-0とリードした。

 北海道勢にとって節目の「夏50勝」となるはずだったが、試合途中からの雨が強まり、4回途中でノーゲーム。翌日の再試合で、立ち直った相手エースに抑え込まれ、2-5で敗戦。香田にとっての甲子園初勝利は指の間からこぼれ落ちた。

 だが、倉敷工戦の「幻の1勝」以降、駒苫と香田の運気は180度転換する。04年の夏から駒苫は甲子園で連勝街道を突き進む。香田にとって3度目の夏となった04年、駒苫は悲願の「日本一」に上り詰めた。深紅の大優勝旗は白河の関どころか津軽海峡も軽々と越えてしまった。さらに翌05年には2年生ながら抑えの切り札として剛腕を披露した田中将大の活躍もあって、史上6校目となる2大会連続優勝という金字塔を打ち立てた。

躓きは部長の「体罰」

 栄光の裏側で、駒苫野球部を蝕む「負の遺産」も積み重なっていた。最初の逆風が駒苫を襲ったのは甲子園連覇を達成した直後だった。夏の大会が幕を閉じて2日後の22日、駒大苫小牧の篠原勝昌校長は午後10時過ぎから緊急記者会見を開き、野球部の部長が、ある控え選手に2度にわたって体罰をふるっていたと発表し、「優勝旗返還の話が出るかもしれないが、どんな結論でも受け止める」と謝罪した。(253頁)

 発表によれば、問題の部長は春の全道大会後、朝練での練習態度に腹を立て、平手で3、4発殴った。さらに甲子園が開幕した翌日の8月7日、同じ部員をスリッパで1回たたいたという。

 自分の子供がスリッパでたたかれたと聞いた父親が8日、高校に抗議の電話を入れ、体罰が発覚した。最初の体罰は「平手で3、4発」どころか「40発におよんだ」と訴えた。校長は「学校の対応は甲子園の大会が終わってからでいい」という父親の言葉に甘え、発表を控えていたという。

 野球部の保護者会はことを穏便に済まそうと、その親を必死に説得したが、最終的に物別れに終わった。週刊誌に父親の告発記事が掲載されることが分かり、学校側が急遽、会見を開いて発表したのだという。日本高野連は駒苫の会見を受け、野球部長は有期の謹慎、チームは警告処分とした。


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