敗戦の夜、新日鉄堺のナインたちは、祝勝会をやるはずだった会場で残念会を行った。このとき野茂は浴びるほどビールを飲み、泥酔し、そして声を上げて泣いた。
「もともと1点負けとったんやから、お前の責任やない」。中川善弘監督がそういって何度なだめても、野茂は泣き止まなかった。野茂にとって「あの1球」はそれほど屈辱的な1球だった。
生涯の恩人から学んだ縦の変化
この1球から6年後、著者は野茂本人の口からこんな貴重な証言を引き出す。<「あのホームランを打たれてから、ボクは野球に対する考え方をガラッと変えました。それまではボーッとして何も考えていなかったけれど、あの1球がボクのすべ変えたんです。それまでのボクは、何の自覚も目的もなく日々の練習をのんべんだらりとやって、新人の務めだった雑用をこなしていた。〝こんなもんでいいのかな〟と漠然と疑問に思うことはあっても、突き詰めて考えることはなかった」>。(129頁)
中川は、打者に恐怖感を植え付けるほど威力のある野茂のストレートを生かすため、もうひとつ球種を増やす必要があると思い、最初は野茂にスライダーを投げるように指導した。だが、どうもうまくいかない。再び野茂にアドバイスした。<「お前のフォームからすると、横の変化(スライダー系)より、縦の変化のフォークのほうが合うとるかもしれん。挑戦してみろ」>(131頁)
野茂にとって幸運だったのは、チーム内の先輩に清水信英というフォークボールの使い手がコーチ兼任の投手をしていたことだ。ボールの握り方から球を放すタイミングにいたるまで手ほどきを受けることができた。
この清水は野茂が大リーグで成功した後、国内のアマチュア野球に恩返しする形で結成した社会人チーム、NOMOベースボールクラブの初代監督に招かれた。まさに恩人だ。
血のにじむ努力でフォークボールを習得した野茂は社会人2年目、チームの柱に成長した。前年、あと一歩で逃した都市対抗本大会の出場を決めると、野茂は1回戦で優勝候補の一角、東京都代表、NTT東京戦に先発した。この試合こそ、著者の鉄矢との出会いとなった試合だが、野茂は2失点完投で都市対抗デビューを飾った。