「自分の元でも町一番とか栃木で一番になれるだろう。でも日本一になるなら日本一の先生につくしかないと考えて、手島先生に手紙を書いて、返事を待たずに僕を連れて鎌倉の先生の家を訪ねた。ダメなら外で待たせておきますって。父の策略だね」
校則違反の学ランで突っ張る高校生でも、書の世界は5歳から知っている。父の策略が成功して、「チビよう来たな」と迎えてくれた手島と向き合った時に、冷や汗が止まらなかったという。
「父以外の先生を初めて見て、しかも父が心から尊敬する人に接して、衝撃を受けました。本物に会った瞬間だったんだと思う。全身からオーラが見えた気がした」
当時、手島は86歳。16歳の少年を弟子入りさせるのは破格の扱いである。柿沼が手島の放つオーラを確かに見たように、手島もまた少年がその日に持参した2枚の作品に可能性を見たのだろう。手島の逝去によって指導は1年足らずの短期間で終わってしまったが、もしその機会を得なかったら柿沼のその後は変わっていたと思われる。
そんな重要な経験を経て、柿沼は東京学芸大学教育学部芸術学科(書道)に進学する。書の道を歩むことを決意したけれど、まだ内に渦巻くエネルギーの噴出口は見つからない。とりあえず、栃木で高校の書道講師になった。たぶん、熱血系。
「おとなしい子が多い学校じゃなかったからね。書道はカッコいいんだぞバカヤローみたいな授業やってて、それなりに面白かったんですけどね」
でも、自分は書道教師になるために書と向き合ってきたのか……というモヤモヤも抱えている。そんな25歳の時、毎日書道展で毎日賞を受賞した。書家への登竜門といわれる権威ある賞は、日本での地位を確立させるのに資する。それが受賞者の進む普通の道筋だとすると、柿沼の受賞は逆のベクトルへの動きを生むことになった。栃木県内最年少受賞はマスコミに取り上げられ、その取材で語ったことが柿沼をニューヨークへと飛ばせるきっかけになったのである。
「新聞の取材で夢はと聞かれ、ニューヨークに行って書道を芸術として体系化したいとか個展をしたいとか、それっぽいことを言ったんですよ。そうしたら『いつ行くのか?』ってみんなが聞いてくる。困ったな、じゃ行っちゃおうかって学校辞めて、コンビニでアルバイトして、買ったばかりの新車を売って資金を作って行っちゃった」