そこで北ベトナムが急速に対中不信を抱いてソ連一辺倒に傾いたのは当然の成り行きであった。79年に中国は、そんなベトナムがカンボジアの親中ポト派政権を追いやったことを「懲罰」するべく中越戦争を発動して惨敗し、最終的なベトナムとの関係改善も91年のカンボジア和平まで時間を要した。
上海コミュニケが中国に与えたもの
それでも中国はキッシンジャー秘密外交の結果、ベトナムとの関係で損ねた国益をはるかに上回る国益を得た。その最たるものはソ連に対する牽制であるが、同時にそれはインドに対する牽制でもあった。
中印両国は建国・独立の早々から、英印が設定した国境線(インド東部のマクマホン・ラインや、西部ラダック地方の東側など)の解釈やチベットのあり方をめぐり激しく対立してきた。そのインドは長年来ソ連の援助を受け、しかも米中両国と友好的であったパキスタンとはカシミール問題で激しく対立してきた。米中接近は、20世紀後半におけるユーラシア・グレート・ゲームの転換点でもあった。
北東アジアに関して言えば、米国は日本と韓国における米軍の存在を中国に認めさせる代わりに、中国は「台湾に触手を伸ばそうとする日本軍国主義の復活」を強く牽制し(中国は佐藤栄作政権を激しく罵り続けてきた)、かつ台湾にある中華民国と米国の国交断絶と「一つの中国」原則に対する米国の認知(=異議を申し立てない)という多大な成果を得た。
そして中国側は上海コミュニケにおいて、自国の「平和共存五原則」、すなわち「各国の主権と領土の尊重」「相互不侵犯」「内政不干渉」「平等互恵」「平和共存」を一貫して貫き、これらによって国際紛争を平和裡に処理することを米国に認めさせた。
総じて上海コミュニケを中国からみれば、窮していたはずの中国が米国の弱点に乗じてさまざまな条件をつけ、国際関係における自らの立ち位置を挽回したという画期であり、そんな奇貨をもたらしたキッシンジャー氏に感謝し称賛せずにはいられない、といったところであろう。しかもキッシンジャー氏は、自らの「成果」に強い自負を抱き、米中関係の如何にかかわらず中国との関係の重要性を説き続けた。
そこで中国は今や、米中関係と自国経済が極めて厳しい状況にあるからこそ、キッシンジャー氏の死に対し表向きすがりつくかのような姿勢を見せている。例えば、習近平氏の名で出された弔問文では「世界的に著名な戦略家」「中国人民の古き良き友人」「卓越した眼光で中米両国に福をもたらし世界を変えた」「博士の名は永遠に中国人民に銘記され想起される」などと最大級の賛辞を送っている。
日常的に「戦狼外交」の尖兵となっている『環球時報』(党機関紙『人民日報』子会社)に至っては、12月1日の「米国にキッシンジャーの後継者がありますように」と題する社説で、「彼の思想と洞察、そして外交的実践は、中米関係、とりわけ米国にとって極めて貴重な歴史遺産である。後の米国の人々が発掘し発揮するのを待つ」といった言辞を並べている。
天安門事件で露呈した「五原則」の限界
とはいえ筆者は、長年中国が掲げ、上海コミュニケで米国にも受け入れさせたと考えている「平和共存五原則」には限界・瑕疵があるため、米中関係が中国の期待通りに好転する可能性は薄いと考える。
「五原則」はなるほど、主権の尊重、内政不干渉といった国際関係の基本をその通りに記している。そして、中国が強く参与した55年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)でも活かされ、多くの第三世界諸国を中心に支持を集めてきた。
しかしそもそも「五原則」は、50年代早々に厳しく対立した中印両国が、少しでも国家建設に意を注ぐために妥協したことの産物であった。そこで「五原則」はあくまで、文明・文化・体制の違いはどうあれ、互いに独立した主権国家であることを尊重するというレベルにとどまっており、そこから先、さまざまな主権国家や国民相互の関係が進展する中で、どのようにして具体的な規範を創り上げて共有し、互いを律するのかという問いかけを欠いている。