去る11月29日、米国ニクソン政権の下で国家安全保障担当大統領特別補佐官を務めたキッシンジャー氏が死去した。彼の業績をどう評価するかについては、現実主義外交の大家とする向きと、米国の国益と勢力均衡のためには手段を選ばない人物とする向きがあり、近現代の世界史を広く俯瞰してもこれほど毀誉褒貶に満ちた人物は多くない。
筆者の見るところ、ベトナム戦争終結に際してベトナム側の交渉担当者であったレ・ドク・ト (黎徳寿) 政治局員が、キッシンジャーとのノーベル平和賞同時受賞を拒んだあたりに、キッシンジャー外交の本質が滲み出ているように思われる。それでも、少なくとも中国から見ればキッシンジャー氏の存在は、以来約半世紀にわたり中国の生存と発展を担保した大恩人ということになる。しかしこの間、果たして米中関係と世界は本当に幸福なものだったのだろうか。
南北ベトナムに裏切りと狡猾に映った米中接近
毛沢東時代の中国は、文字通りの社会主義国家・反帝国主義の国家として、全世界レベルで革命外交・第三世界の連帯に邁進していた。しかし中国は国内において毛沢東の失政で疲弊し、外交面でも米ソ両超大国との対決で極度の緊張に襲われた。しかも、文革で中国外交の実務担当者が糾弾された結果、革命外交は過激化と現実からの乖離をきたし、多くの国から警戒ないし冷眼視された中国外交は孤立に陥った。
そしてついに1969年、ソ連と中国が領有権を争い軍事衝突したダマンスキー島事件で正面衝突が現実化した結果、第三次世界大戦に対する毛沢東の恐怖感は極限に達したものの、それゆえに外交の混乱を収拾し、周恩来を中心とした勢力均衡の現実主義外交へと復帰しようとした。
そのような中国の国益と、ベトナム・インドシナで泥沼に陥った米国の国益を一致させようとしたのが、キッシンジャー秘密外交であった。米国は、北ベトナム側が68年に発動したテト攻勢を押し返し、さらにホーチミン・ルート遮断等の目的でカンボジア・ラオスに侵攻するなど、戦線をインドシナ全体に拡大させたものの、報道が伝えるベトナム戦争の悲惨な実態は米国をはじめ世界各地でベトナム反戦運動のうねりを引き起こした。
そこで米国は、「適切な間隔」を保って米国の「名誉ある撤退」を実現するにあたり、ソ連と競合・対立しつつインドシナ諸国の革命運動を支援していたはずの中国を米国側に引き寄せようとした。72年のニクソン訪中時に発表された上海コミュニケの核心の一つは、「将来のインドシナ各国のあり方は、各国それぞれの話し合いによって決まる。それで解決できない場合でも、米国は各国の自決に合致する状況のもとで撤退する」という趣旨であった。
これは一見「悔い改めた潔い優等生」の判断に見えて、南北ベトナム双方から見れば裏切りと狡猾以外の何者でもない。南ベトナムは突如見捨てられ、やがて75年にはサイゴンが陥落した (今日のベトナム共産党政権から見ればサイゴン解放である)。一方、北ベトナムは米国の退潮を踏まえて一刻も早い南の解放を目指したものの、中国はニクソン訪中以来米国のために「適切な間隔」を提供するべく、表向きの熱烈な中越友好を演出した裏で、北の作戦行動への支持・支援に消極的になった。