ゆえに「五原則」の下では、さらなる規範を描いて共有し共存のレベルを高めようとする国々と、そんな行為そのものを内政干渉と切り捨てる国々の亀裂が生じやすい。また、国際関係の主体は主権国家だけでなく、組織・企業・個人も含まれる以上、他国の問題に対してもさまざまな価値観による意見が表出され、外交に影響を与えることは避けて通れないが、「国家」「民族」が主語となっている中国の「五原則」は、この種の可能性に対して柔軟性を欠いている。
この問題は既に、89年の六四天安門事件において露呈した。
当時の米国のジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、ニクソン訪中を機に北京に設置された連絡事務所の所長を務めた米中関係の「井戸掘り人」の一人であり、極度の米中関係悪化は望まない立場であった。しかし対中制裁で議会は一致し、拒否権も発動しづらいため、ブッシュ氏は事態打開に向けた米中秘密対話の一環として、キッシンジャー外交を支えた経験を持つスコウクロフト氏を特使として派遣した。
これに対し、当時中国の最高権力者・中央軍事委員会主席であった鄧小平氏は「五原則」の名において米国側を一蹴し、米国の干渉を一切受け入れず、制裁や非難で不必要な対立を惹起した米国自身が態度を改めるべきだと強調した。しかしスコウクロフト氏は、中国の問題も米国に影響を及ぼせば米国の国内問題となるが故に、単純な内政不干渉で割り切れるものではないとし、だからこそ懸念を伝達し、事態悪化回避のための意思疎通を続ける必要性を主張したのであった (銭其琛『外交十記』)。
その後の米中関係改善は、東欧・ソ連社会主義圏崩壊という荒波の中で時間を要し、中国自身が「和平演変(西側による平和的体制転換)」を防止するためにも愛国主義と経済発展を同時平行的に強調する姿勢を固める中でようやく復調した。
「一帯一路」「対中デリスキング」へ
したがって、中国は「五原則」のもと何も変わらなかったし、米国・西側諸国も積極的な影響を及ぼし得なかった。のみならず米国や西側諸国は、80年代から90年代を中心に一世を風靡した民主化論のもと、中国でも経済発展すれば政治的に独自な中間層が創出され、民主化が実現するという甘い見通しを立てた。
しかし2008年以後、中国は「中華民族の偉大な復興」「中国夢」を実現するという姿勢を明確にする中で、国内では抑圧的な姿勢を強め、対外的にも「一帯一路」のもと、中国に従う国には恩恵をもたらす一方、批判する国には威圧を厭わなくなった。
今や中国自身が、上海コミュニケにいう「大国は小国を侮るべきではなく、強国は弱国を侮るべきではない。中国は決して超大国にはならないし、如何なる覇権主義と強権主義にも反対する」という趣旨から逸脱している。そして中国は、ロシアとともに「多極化世界」の構築を目指す中で、自らの「極」(西太平洋地域)において米国や日本の影響力を排除・極小化する姿勢を明確にし、ロシアの「極」構築(ウクライナからの北大西洋条約機構(NATO)排除)を隠然と支えている。