11月30日、米国の元国務長官であり、20世紀後半の国際関係に足跡を残したヘンリー・キッシンジャーが、100歳で死去した。彼は幾多の特筆すべき業績を残したが、その一つが1971年の極秘訪中を経て、米中国交正常化への道筋をつけたことであった。これによってキッシンジャーは、中国の「老朋友」(古き良き友)として遇され、長年にわたって中国の対米政策における最大の助言者であり、また最も頼るべき仲介者でもあった。
このため中国の国営通信社「新華社」は彼の死を速報で伝え、外務省の汪文斌報道官は「人民は同氏が両国関係に注いだ心と重大な貢献を忘れない」と評した。同日、習近平国家主席はバイデン大統領に弔電を送り、「古き良き友」との表現を用いて、その米中関係の発展にまつわる生前の功績を称えた。習近平は、7月にも訪中したキッシンジャーとの会談に応じており、中国側の待遇や反応は、キッシンジャーという人物が、中国にとって特異な利用価値を持っていた証左でもあった。
だが、キッシンジャーとその事績については、中国との関わりも含めて、毀誉褒貶が付きまとう。従来から、日本のメディアはキッシンジャーについて、彼自身の巧みな操作によって偶像化されたその権威を、無批判に受け入れる傾向が強かった。それは今回の死に際して、日本での報道の多くを見ても同様である。
キッシンジャーの生い立ちと「成功」
キッシンジャーは1923年、ドイツ・バイエルン州のユダヤ系中流階級に、ハインツ・アルフレート・キーシンガーの本名で生まれた。38年、ナチス台頭を危惧した父親の判断で米国に移住したものの、一家の生活は貧しく、工場労働者として働きながら夜学の高校・大学に通うなど苦労をした。
この若き日の経験が、彼の強い上昇志向と私利追及に影響を及ぼしていることは否定できない。43年にはニューヨーク市立大学での学業途中で陸軍に入隊し、対独諜報活動の末端に従事する。
復員後はハーバード大学・大学院で政治学を修め、政治学者としての地位を固める。博士学位論文では、19世紀前半ナポレオン戦争後の欧州秩序を規定した「ウィーン体制」を主題としており、この根本である「勢力均衡」の概念は、彼の生涯にわたる外交姿勢を規定する。
その後、俊才の政治学者としてハーバードでの教職や外交問題評議会での活動を通じ、自らの理論・主張を政界・外交関係者に積極的に売り込み、ケネディ政権初期には短期間であるが大統領顧問を務め、国務省関連の仕事を引き受けるなど、ワシントンでの地歩を築き始める。同時に、ロックフェラー財閥の一員であるニューヨーク州知事ネルソン・ロックフェラーからその才を評価され、深い個人的関係を築き上げた。