2024年11月25日(月)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2023年12月6日

 キッシンジャーが最高の表舞台に立ったのは、ニクソン政権での登用であった。共和党の大統領選予備選をロックフェラーと争い、68年の本選で勝利したニクソンもキッシンジャーの能力を高く評価し、政権発足と同時に国家安全保障問題担当補佐官に任命した。

 野心溢れるニクソンとキッシンジャーは、巨大化した国務省をバイパスし、ホワイトハウス内での迅速な外交政策の決定・実行を目論んだ。その「手足」として、国家安全保障会議(NSC)に秀逸な若手の外交官、情報関係者、軍人、学者を集め、後にはこれが網の目のように拡大することで、長年にわたるキッシンジャーの影響力の基礎となる。

「大きなゲーム」に長けた才

 キッシンジャーの外交姿勢の基本は、若き日に研究した「ウィーン体制」に倣い、大きな構図の中で多角的な利害を巻き込み、自らに有利な環境へと再編することで、主要な相手国が突出・軽挙できない状況を作り出すことにあった。これによって当時、膠着状態にあった冷戦、およびその副作用である米国の諸問題、たとえば最大課題であったベトナム戦争の状況などを、再編することを目論んでいた。

 キッシンジャーがまさに非凡であったのは、こうした国際関係の「大きなゲーム」に長けていた点である。したがって米中国交回復に向けた動きも、その一端であった。

 米中の非公式接触は69年からパキスタンやルーマニアなど第三国経由で開始され、両者ともに国際状況や国内反対勢力の動向を見て慎重に進められた。そして71年7月、キッシンジャーの極秘訪中が行われた。

 当時、キッシンジャーの「手足」の一人で、80年代後半に駐中国大使を務めたジェームズ・リリー(米中央情報局(CIA)工作官)の回想によれば、キッシンジャーは国務省やメディアに知られないよう東南・南アジア歴訪を装い、パキスタンで「体調不良」となる。現地ではCIAが警護・輸送を担当し、パキスタン政府機で北京に向かった。そして周恩来との二者会談に臨み、72年2月の衝撃的なニクソン訪中に結実する。

 対中政策の抜本的転換は、既に対中関係が深刻化していたソ連を動揺させ、米国とのデタント(緊張緩和)に向かわせた。さらに中ソ両国から支援を受けていた北ベトナムにも動揺を与え、膠着状態の双方が73年の「パリ協定」に向かう契機となった。

 まさに米中の実質的国交回復とは、「勢力均衡」を信奉して冷戦に新局面を作り出そうとしたキッシンジャーの「大きなゲーム」の一端であった。このイデオロギーを排してリアリズムを重視した外交手腕を高く評価する向きがある一方、自国利益に適うと判断すれば、膨大な人が犠牲となったカンボジア爆撃や世界中の人権侵害といった非道を容認した姿勢には、現在も根強い批判がある。


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