2024年7月16日(火)

スポーツ名著から読む現代史

2024年5月8日

 すぐに立ち上がったが、今度は左フックが頭頂部をかすめ、2度目のダウン。「大丈夫だ」とセコンドに合図を送る余裕がまだあった。

 そのラウンドはフットワークでなんとか井上の攻勢をしのいだが、続く2回には井上の多彩な攻撃の前になすすべを失った。1分30秒過ぎ、ナルバエスが右フックを放った瞬間、井上の狙いすましたカウンターがヒットし、この試合3度目のダウン。さらに強烈な左がボディーをえぐり、マットに崩れ落ちた。3分1秒、KO負け。

 衝撃の結末にセコンド陣は混乱していた。「井上のバンテージに何か仕込まれているんじゃないか」。これまで不倒のオマールがこんなに倒れるはずがない。

 井上にグローブとバンテージのチェックを要求、リング中央に集まり、井上がグローブを外した。拳に巻かれていたのは白い布だけだった。

 現役引退後、ナルバエスは著者にこう振り返っている。<「井上は2階級下の選手だろ。だからスピードはあるが、パワーはないと思っていたんだ。だけど逆だった。びしびしとパワーが伝わってきた。一気に2階級上げた選手にパワーがあるなんて驚きだよ。試合を決定づけたのは彼のパンチの強さだと思う」>(190頁)

井上と2度戦った男

 本書で著者は、井上とグローブを交えた11人のボクサーを取材しているが、その中でただ一人、井上と2度、ビッグタイトルをかけて戦ったボクサーがいる。それがノニト・ドネア(フィリピン)だ。フライ級からフェザー級まで5階級で世界を制し、アジア人として初めて世界4団体の統一チャンピオンとなったフィリピンの英雄だ。

 1982年生まれのドネアに対し、井上は93年生まれ。9歳も離れている二人が最初にグローブを交えたのは19年のワールド・ボクシング・スーパー・シリーズ(WBSS)でのことだ。

 主要団体の世界王者ら各階級8人ずつがトーナメントで王座を競う。その決勝戦が19年11月7日、さいたまスーパーアリーナで行われた。2万席を超えるチケットはすぐに完売した。

 試合前の予想は井上が圧倒的に有利とみられていた。しかし、2回2分過ぎ、ドネアの強烈な左フックが井上の右目にクリーンヒットした。目の上をカットし、傷口は深かった。井上にとってアマチュア時代を含め初めての出血だった。

 出血以上にダメージが大きかったのは眼球だった。焦点が合わず、ドネアの姿が二重に見える。井上はドネアに気付かれないよう、ガードを上げて右目を隠し、左目だけで相手をとらえ、左ジャブで試合を組み立てる戦法に切り替えた。

 井上がやや優勢ながら互いに決定打を奪えず試合が進み、迎えた11回、井上の右アッパーをよけようと上体を起こした瞬間、わき腹に左フックを食らい、しゃがみこんだ。この試合初のダウン。どうにか立ち上がり、両者は最後の力を振り絞って打ち合いのまま終了のゴングが鳴った。

 判定は3-0で井上だった。試合後、「チーム・ドネア」のスタッフらにドネアは宣言した。<「次にやれば必ず勝てる。もう1回、やりたいんだ」>(382頁)

 ドネアは21年、WBCバンタム級の王座に返り咲き、バンタム級の「4団体統一王座」を目指す井上への、いわば「挑戦権」を手にした。

 再戦が実現したのは22年6月7日。会場は前回と同じさいたまスーパーアリーナだった。今回はWBA、IBFの王者井上と、WBC王者ドネアとの3団体の王座統一戦だった。

 同年3月の記者会見で、ドネアはビデオメッセージを寄せた。「早く再戦したかった。井上に負けた日、リングを降りながら『倒せたのにな』と思ったんだ。だからリングに帰ってきた。パワーは前からあるが、スピードとパワーを融合して自分の中に落とし込めた」。

 一方の井上。著者の個別インタビューで、前の試合を振り返り、こう語った。「白熱するといったら、あれ以上はないですけど、ああいう試合にするつもりはないんで。一方的に終わらせる、という気持ちでいるんで。次は『ドラマ』にさせるつもりはないですから」「誰もが想像していないような結末にしますんで。あっと言わせるよな、想像の上を行く試合をしますんで」>(391~392頁)

 2年7カ月ぶりの再戦。ドネアはいきなり左フックを井上の顔面にヒットさせた。いつになく積極的に仕掛けるドネアだったが、山場は突然訪れた。

 1回終了間際、井上のショートカウンターがドネアのあごに当たり、ドネアは尻もちをつくようにダウン。無意識のまま立ち上がり、ファイティングポーズを取ったところでゴングに救われた。

 2回、ダメージの残ったドネアに井上が襲い掛かる。ドネアが必死に左を振りぬいたところに井上が右ストレート、左フックを浴びせ、ドネアはマットに沈んだ。1分24秒、レフェリーが試合を止めた。

 <試合から数日後、井上は米国の老舗専門誌『ザ・ゴング』の全階級を通じた最強ランキング『パウンド・フォー・パウンド(PFP)』で日本人初の1位となった。ドネアという世界的な強豪に何もさせず、わずか2ラウンドでKOしたことが評価された>(402~403頁)

 この評価は、今回のネリ戦でさらに高まったと言っていいだろう。世界王者となり、10年が経過した井上。これからも井上の戦いぶりから目が離せない。(文中敬称略)

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