山田 私が住んでいる都市(首都圏内)では、多くの子どもが小4年から塾に通い始めます。クラスで塾に行ってない子は、おそらく1人か2人。しかも、就塾の低学年化が進んでいます。塾はビジネスですから、少子化に対応するには客の頭数を増やすしかないのでしょう。
低学年から塾に通わせるなんていかがなものかと思う一方で、塾は、オプションでプログラミング講座をやってくれたり、理科の実験をやってくれたりするし、皮肉なことに、塾の先生は教え方がうまいらしいのです。塾の先生の話に感動して、子どもががぜん勉強をやる気になったなんて話も聞きました。
出井 塾はいま、留学生向けの日本語学校運営にも進出していますよ。少子化ですから、事業領域を拡大しているんです。
なんか変じゃないか?
「学び」と「気づき」と「成長」がキーワード
山田 教育ということに関して、いま私がとても気になっているのは、いつの間にか「学ぶ」を「学び」と言い、「気づく」を「気づき」と言うようになったことです。企業のセミナーなどを取材に行くと、「学び」と「気づき」と「成長」がキーワードになっている場合がとても多い。 セミナー終了後に参加者の感想を聞くと、「今日はこれこれこういう学びと気づきがあり、成長することができました」などというコメントをする人がいるのですが、たった1、2時間のセミナーに参加しただけで何らかの「学び」を獲得し、何事かに「気づき」、その結果「成長」したって……本当かよ? と思ってしまうんですが(笑)。
僕らの世代と一緒にしていいのかどうか分かりませんが、少なくとも僕らにとって「学ぶ」ということは、そんなに安直なものではなかった。「学ぶ」はもともと「まねぶ」、つまり真似をすることですよね。何度も真似をして、何回も反復することによって、ようやく「学ぶ」ことができた。
ところが、自己啓発本的発想というか、外資系コンサル的発想というのか、「こういうロジックでこれを実行すれば、(簡単に)学びになる」という考え方がはびこっている。「学び」を手に入れると、すぐさま重大なことに「気づき」、その結果、アッという間に「成長」しちゃう。そんな、「軽さ」がとても気になっているのです。
一方、学校の先生たちの中で「学ぶことの本質とは何か?」という議論ができる人がどれだけいるかといったら、それほど多くないというのが僕の実感です。「 学ぶとは何か」を独自に追究している先生も稀にいますが、残念ながら、学校の中では異端である場合が多い。
僕がPTAをやっていた学校にはN先生という名物教師がいましたが、彼の持論は「学校はひたすら楽しければいい」でした。だから、学校の中で徹底的に子どもを遊ばせるわけです。雪が降ったら、チャンスとばかり雪合戦をやらせる。 雪を触って、雪を丸めて、ぶつけ合って……。
ところが、雪合戦をやらせると保護者から服が汚れるとクレームが来るからといって、件の校長は雪合戦を許可しないわけですよ。許可しないどころか、校庭に出ることを禁止してしまう。N先生はうまい理屈をつけていろいろな遊びをやらせていましたけれど、ロジックではなく、体験を通して学んだことって生涯忘れないと思うんですけどね。
小林 そうすると、誤解を恐れずに言うならば、偏差値の高い子は塾に行ってマニュアル化してうまく答えられるようになり、偏差値の低い子は、軍隊方式で従うようなマニュアル化していきます。というのも、偏差値の低い子ほど厳しく統制しようとするからです。
結局、本質は同じで、どの層になっても、先生の言うことを聞くように育てている。 これは「格差を容認しやすくなる社会環境」を教育界自身が作っているような気がします。ノーと言わない、批判しない、疑わない。まさに日本っぽいですね。コントロールされて、受け入れる――。今のような世の中も受け入れて、反する人がいない。健全な批判ができない社会や教育界のままではいけない。
保育も小学校も中学校も、 やっぱり先生たちにもう少し教える自由があって、物の本質を見抜く力をきちんと教えていける人が必要です。でも、今の動きはそれとは逆行している。表面的な課題をこなすことばかりしています。そもそも、みんな学習塾に行って、国力が上がっているかといえば、そうはなっていないと思います。