<もともと先生の頭の中にあった企画は、ご自身が相手の現場に訪ねていくという方式であったが、対話が始まった一月にはそれもかなわず、熊本、それもご自宅に来てもらうというスタイルに変更された。>
<病の進行とともに、対話は厳しくなっていった。それでも、毎回、対話相手が訪ねてくると、いつもの笑顔が戻り、話は尽きることなく長時間にわたった。先生からの話を伺っている限り、まだまだ対話したい方はあった。しかし、病状がそれを許さなかった。>(花田昌宣センター長「おわりに」)
原田先生との思い出
本書にも幾度となく出てくる言葉だが、「現場に行く」ということ、そして、「患者の側に立つ」ということを貫いてこられた原田先生。その”芯棒”は、4度目のがんに侵され、自らの最期を覚悟しながらも、少しも揺るがなかったのだ、と私は感嘆した。
ありがたいことに私も、原田先生と長い長い対話をさせていただいたことがある。2006年、読売新聞の日曜版連載「一病息災」を担当していた折、熊本へ伺った。闘病経験のある、または闘病中の著名人に、病との向き合い方などを語っていただく、ひと月、4回にわたる連載である。
水俣病とかかわるきっかけから始まり、「水俣学」への思いやご自身の闘病まで、熊本学園大学の教授室では話が尽きず、いったん近くのレストランへ移動した。原田先生は人懐こい笑顔をたやさず、私が食事代を払おうとすると逆にごちそうしてくださった。
大学のキャンパスを歩きながらも、話は続いた。どんな質問をしても、長時間かかろうとも、やわらかい熊本弁で訥訥と、真摯に答えてくださる原田先生は、著作から想像していたとおりの、飾らない、懐の大きな方だった。
そのお人柄と、目指していた「水俣学」の思想を最もよく表したのが、対話集というかたちの本書であろう。
ただひたすらに現場に行き、
患者と家族の声を世に伝えようとしてきた
本書で対話を重ねた15人の顔ぶれからもわかるが、原田先生のまわりには、先生が好むと好まざるにかかわらず、いろいろな種類の人が引き寄せられていた。
しかし、原田先生が最も大切にして、その代弁者となろうとしてきたのは、水俣病や三池炭塵爆発CO中毒、カネミ油症といった事件の被害者となった患者と家族である。