大正期の半ば、名古屋城から東に進んだ高台に、ひときわ目をひく洋館が建っていた。ひと家庭に電球1個という時代に、庭と建物が明るくライトアップされ、テラスの窓からステンドグラスを通した色鮮やかな光が漏れ出ていた。一帯にはまだ田畑が多く、はるか遠くからでもこの光景を眺めることができた。地名をとって「二葉御殿」と呼ばれた。
この館の主は実業家の福沢桃介、あの福沢諭吉の娘婿である。だが、訪れる賓客たちが最初に目を向けるのは桃介ではなく、傍らに寄り添う女性の方だった。優雅に手を差し伸べる女主人の名は川上貞奴、欧米にその名をとどろかせたかつての大女優であった。
1871(明治4)年生まれ、東京の芳町(今の日本橋人形町)の名妓だった貞奴は、23歳で川上音二郎と結婚する。音二郎は壮士芝居を生業とする興行師で、一世を風靡した〝オッペケペー節〟で名をなした。二人を取り持ったのは貞奴を贔屓にした明治の元勲たちだったという。
興行師として浮き沈みの激しい時期を経た99(明治32)年、音二郎は思い切って米国公演に打って出る。「武士と芸者」と銘打った舞台は、貞奴の舞踊の美しさから大評判となり、勢いそのまま、欧州へ向かう。ロンドン公演が好評を博し、続くパリ万博でフランス大統領に「道成寺」を披露すると、19世紀の日本美術ブーム、いわゆるジャポニスムの流れにも乗り、貞奴を一躍大スターにのし上げる。ロダン、ドビュッシー、ピカソら一流の芸術家たちが貞奴を絶賛、着物を模した〝ヤッコドレス〟がパリで大流行する。フランス政府から叙勲も受けた。
その後も、二人は演劇界に確たる地位を築いてゆくのだが、1911(明治44)年に音二郎が死去すると、その七回忌を期に貞奴も表舞台から身を引いたのである。
さて、二葉御殿の話に戻ろう。
二人の出会いは桃介が慶応義塾の学生だった頃に遡るというが、貞奴の引退後に再会、遠い日の夢を追うかのように恋に落ちる。かつての大女優と妻子をもつ著名な実業家、大正ロマンさながらの二人がこの地に愛の巣を求めたのには、現実的な理由があった。
当時、すでに電力事業で成功していた桃介は、新たに木曽川の電源開発に乗り出し、日本初の本格的ダム式発電所の建設を志す。全国から出資者を募り、また、米国から最先端の技術者を呼び寄せた。そうした人々を招くに相応しい場として造られたのがこの御殿であった。
もう一つ、より重要な役割があった。桃介は、電気がもたらす豊かな生活と未来、そのショールームとして、電気を湯水のごとく用いるこの洋館を建設したのだった。玄関や社交の場となった大広間、ダイニングが光に満ちたのは当然のこと、バックヤードや使用人部屋に至るまで、全館に電気が通じていただけではない。停電の際の備えとして自家発電の設備まで設けていた。今から100年も前のことである。