地震や津波、豪雨などの自然災害の発生は防げない。一方で、災害関連死は、さくらさんが願うように防災政策や支援体制の充実によって限りなくゼロにできる可能性がある。
時間の経過とともに、被災者のリスクは多様化していく。年齢や職業、資産、性別、健康状態、家族構成などで、被災後の生き方や死に方が変わる。だからこそ、5000以上の災害関連死を、すべからく検証し、次の災害に備える防災政策や支援に活かす─。この視点こそが、災害関連死が、被災者の〝最期の声〟と呼ばれる所以だ。
しかし、消防庁によると、能登では、発災1年足らずで、すでに直接死228人を上回る261人の災害関連死が発生した(24年12月24日時点)。過去の災害を忘却し、5000以上の最期の声を顧みなかった結果、新たな被災地でも、本来なら救われるべき命が喪われてしまったのではないか。
災害遺族の悲しみが原点
弔慰金支給拡大の歴史
そもそも災害関連死は、災害遺族の悲しみを原点に誕生した。
ルーツとなるのが、1967年に新潟県と山形県で138人もの犠牲者を出した羽越豪雨だ。この災害で両親と2人の息子を亡くした佐藤隆が政界に進出し「災害弔慰金の支給等に関する法律」の議員立法にこぎ着ける。
災害弔慰金は、国や自治体から遺族に対する見舞金だ。佐藤は、生活再建には手厚い公助が必要だと考えた。当時は、被災者個人への支援制度がなく、被災者は自力で生活を立て直さなければならない時代だったからだ。
当初、災害弔慰金は、直接死の遺族だけに支払われていた。対象を拡大するきっかけが30年前。阪神・淡路大震災が発災した1月17日から被災者は冷え込む体育館などでの避難生活を強いられた。神戸市役所に問い合わせが相次ぐ。家族が避難所で風邪をこじらせたり、インフルエンザにかかったりして亡くなったが、災害弔慰金は支給されないのか。
30年前の被災地では、被災者の心情を鑑みて、直接死以外の遺族への災害弔慰金支給にはじめて踏み切った。
9年後の新潟県中越地震では、車中避難によるエコノミークラス症候群が注目された。新潟では16人の直接死者に対し、関連死は52人を数えた。ただし、新潟の取材を続ける筆者は「災害弱者」と呼ばれる高齢者や基礎疾患を持つ人が、災害の影響で亡くなるのは、仕方ないと漠然と受け止めていた。
そんな筆者を変えたのが、「3・11」、2011年の東日本大震災だ。三陸沿岸の被災地では、車中泊の避難者に、体操や水分補給を促したり、血流を改善する弾性ストッキングを配ったりする保健師や、支援者の姿が見られた。それは、エコノミークラス症候群対策に取り組む、新潟の教訓が生んだ光景だった。その活動は、熊本や能登でも目の当たりにした。自然災害は、場所を変えて発生する。けれども、支援の経験や、人々の死の教訓は蓄積され、新たな災害で活かされていると実感したのである。
加えて仙台で大学時代の4年間を過ごした筆者にとって、被災したのは友人や知人であり、見慣れた町だった。震災から1年がたとうとしたある日、被災地で暮らす30代の知人が突然、亡くなった。自死が疑われた。大災害を生き延びた人が、なぜ自ら命を絶たねばならなかったのか。行き着いたのが、災害関連死だった。
やがて筆者は、30年で5000人を超えた災害後の死は、氷山の一角に過ぎなかったと知る。
3・11の4年後、母を亡くした姉妹と知り合った。岩手県沿岸部で被災した姉妹は、困窮し、上京して路上生活を送った後、夜の町で働いていた。甲状腺の持病のある母は、震災から3年半後に仮設住宅で突然、逝ったという。まだ40代半ばの若さ。筆者は災害関連死ではないか、と直感した。
