2025年2月1日(土)

災害大国を生きる

2025年1月29日

 イタリアもまた、日本と同様に地震大国である。ユーラシアプレートとアフリカプレートとの境界に位置するその半島には断層も多く、特にこれをT字に走るアルプス山脈南西端から背骨のように南北を走るアペニン山脈周辺は地震多発地帯として知られる。

2009年のラクイラ地震後に設置された避難所。イタリアの避難所はテント型でプライバシーが確保され、震災後すぐに温かい食事が提供される(ERIC VANDEVILLE/GETTYIMAGES)

 中でも1980年11月23日、南部の広域を襲ったマグニチュード6.9のイルピニア地震は40年以上が経過した今もなお、復興が続いている。37の自治体が壊滅し、698の自治体が何らかの被害を受け、死者2890人、約28万人が家屋を失った。道路は寸断され、通信網も不通となり、現場は混乱を極めた。この地震での苦々しい経験が、イタリアが世界に誇る災害支援の合理的な仕組み「市民保護局」を生んだ。

イタリアで発生した主要な地震 (出所)各種報道資料を基にウェッジ作成

 イルピニア地震発生の翌日、ヘリコプターで現地入りしたサントロ・ペルティーニ大統領(当時)は、その惨状を目の当たりにして、帰還後すぐにテレビ演説を行った。瓦礫の下から助けを求める声を耳にしても必要な機材さえなく、被災者の食料すら不足していた。両親と兄を失った少女や夫と息子たちが犠牲になった女性に遭遇した大統領の真摯な訴えは、国民の心を打った。

地震翌日に現地入りしたペルティーニ大統領(筆者提供)

 「死者を弔う最善の方法は、生きている人たちの支援です。生涯忘れがたい悲劇を見とどめた一国民として、全イタリア人に懇願します。どうか被災地へと向かい、彼らを助けてください」

 この呼びかけに応え、イタリア中から多くのボランティアが現地に押し寄せた。

イルピニア地震時のできたての司令部、市民保護局創設以前(筆者提供)

 だが、今度は調整機関の欠落から現地では新たな混乱が生じた。この時、司令官として自治体との調整役を任されたのが、内務次官だったジュゼッペ・ザンベルレッティ。「市民保護局の父」と呼ばれる人物である。76年、北部フリウリ地震で指揮を執った際の教訓を胸に、82年に市民保護局の設置に尽力した。それを受け、92年の「市民保護法」には同局が「自然または人為的災害の被害、あるいは危険性から生命、身体の安全、財産、住居、動物および環境を保護」するためのシステムで、活動の指針は「予測、予防、緊急事態における救助と復興」と明文化された。

イルピニア地震後、貴社に説明するザンベルレッティ(筆者提供)

 また、もともと自治力の高かった山間地フリウリでの救援活動と復興に立ち会った彼は、「災害時には地域の地形やコミュニティーに精通した地元の首長に全権を移管すべき」と考えた。そこで小さな災害では市長、複数の自治体に跨がる中規模の災害では州知事が、全ての権限と責任を負い、国益にかかわる大災害と判断した場合は、即座に政府の市民保護局が介入することとなった。


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