2025年12月5日(金)

絵画のヒストリア

2025年3月9日

 精力絶倫の修道士が自分の不行跡を前にして、修道院長を巻き込んで罪を逃れる話、友人に贖罪を教えた男がその間に友人の妻と隠れた恋を楽しむ話、恋多き女が修道院を舞台に巧みに思いを遂げる話――。

 そこから展開する百の物語は、明日も知れぬ危機のさなかのフィレンツェを映して、ルネサンスの社会の残酷な生死のコントラストを浮き彫りにする。

 生き残って田園に逃れた若い男女が絶望や神罰への恐れに慄くのではなく、現世の悦楽に救済を求めるというのがこの物語の要諦なのである。

価値観を転換させたペスト

 実際、ペスト禍の下でこの都市の市民たちの暮しは、それまでの常識を大きく変えた。歴史家のヤーコブ・ブルクハルトは『イタリア・ルネサンスの文化』(新井靖一訳)のなかで、次のように述べている。

 〈この伝染病で人口が減れば物価全般が値下がりするはずだと予想していたのに、逆に生活必需品や労賃が二倍にはねあがったこと、初めのうち庶民はもう全然働こうとはせず、ひたすら安逸に暮らそうとしたこと、ことに下男下女は市中で高額の給料を出さなければ得られなかったこと、農夫は最上の土地でなければ耕そうとせず、痩せた土地はこれを棄てて顧みなかったこと等々……〉

 ペストが奪う生命は聖職者も貴族も庶民も分け隔てがない。メディチ家という僭主を頂き、現世肯定のルネサンス文化が花咲く都市国家フィレンツェでは、未曽有の惨事に対する現実の対応に追われ、カトリックの神罰主義に立ち返って人々が蹲る時間的な余裕さえなかったのだろうか。

ボッティチェリ(1445-1510) 「デカメロン」より「ナスタジオ・デリ・オネスティ」(制作年不明、マドリッド、プラド美術館))(サンドロ・ボッティチェッリ, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

 1347年から数年にわたるペスト禍は欧州全体の人口のおよそ3分の1を奪ったといわれる。やがて、その災いが10年余りの間隔で繰り返されるようになるに至って、大量死が生む人口構造の歪みが西欧中世の人々の生命感を厚い雲で覆ってゆく。

 W・H・マクニールが『疫病と世界史』でその価値観の転換点を指摘している。

 〈一三六〇年代、七〇年代とペストが再来するに及んで、事情は一変する。農耕その他単純労働の不足が広く痛感されるようになったのだ。ピラミッド型をなして構成されていた社会的経済的秩序が、ヨーロッパの様々な場所で様々に変化した。そして、思想と感情の暗い空気が、ペストそのものと同じように慢性的かつ不可避的に広がった。一言にして言えば、ヨーロッパは新しい時代に入ったのだ〉(佐々木昭夫訳)


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