2025年12月5日(金)

絵画のヒストリア

2025年3月9日

『ヴェニスに死す』が見せた文明の暗喩

 20世紀になってのちも、パンデミックは芸術家の美意識と生死観を動かす重要なモチーフとしてあり続けた。

 医療や公衆衛生の水準の向上で長命化が進むのに伴い、突然襲う疫病の災いは新たな〈メメント・モリ〉の思想を深く人間に刻んで、近代人の「生」と「死」のかたちにひときわ鋭い陰影をもたらした。

 トーマス・マンが小説『ヴェニスに死す』を発表したのは1912年である。2年後にはサラエボでオーストリア皇太子が暗殺、第一次世界大戦が始まる。欧州に戦雲が広がり、社会不安が漂いはじめた時代である。

ベニスに死す
トーマス・マン (著), 圓子 修平 (翻訳)
集英社文庫
​¥495 税込

 〈リドに滞在してから四週間目に、グスタアフ・フォン・エッシェンバッハは、外界についていくつかうすきみわるいことを知覚した。第一にかれには、季節がすすむにつれて、このホテルの客の出入が、ふえるよりもむしろへってゆくように思われた。そしてことに、ドイツ語がかれのまわりで涸れて、音をひそめてゆくように思われた〉(実吉捷郎訳)

 単身でヴェニスに保養にやってきた初老の主人公はドイツの著名な作家である。リドの高級ホテルで同宿するポーランド貴族の家族に馴染むうちに、息子の美しい少年タッジオに淡い恋心を抱いて、その姿を追うようになった。ホテルのロビーや黄昏の海辺、そしてコレラが広がり始めたヴェニスの街角で、少年と交わすまなざしだけの対話に心を躍らせた挙句、主人公は浜辺で客死する。

 ダーク・ボガードを主役にルキノ・ヴィスコンティが監督して1971年に公開された映画によって、その「死の舞踏」の美学は広く人口に膾炙(かいしゃ)するところだろう。

 この物語の通奏低音を形作っているのは、19世紀の初めにインドのベンガル地方で発生し、世紀末にかけてアジアから欧州各地のほか、アフリカや北米にまで大規模な流行を繰り返したコレラ禍への恐怖である。

 1918年に始まるこのパンデミックについて、マクニールは前掲書で「世紀半ば以後蒸気船と鉄道の速度が増すに従い、世界の主要な感染中心地のいずれから発して地球的規模で拡散するのが次第に迅速になっていった」といい、その結果19世紀中の死亡者は何百万という数に達した、とする。トーマス・マンが舞台の背景に描くのは、その波が華やかな水の都のヴェニスの街に達した時の荒涼たる風景である。

 〈この半島の北部は災害を受けずにすんだ。ところがことしの五月のなかば、ヴェニスで全く同じ日に、ある船頭の下働きとある青物売の女との、やせおとろえた黒ずんだ死体の中に、おそるべき螺旋菌が見いだされた。この事件はひみつに付された。しかし一週間後にはそれが十件になり、二十件、三十件になって、しかもさまざまな区域に及んだ〉(『ヴェニスに死す』)

 老いの坂道を上る主人公が心を寄せる美神の少年の影を追って徘徊するヴェニスの街に、甘く鼻を衝く消毒薬のにおいと疫病の感染のうわさが漂っている。噂の真偽を確かめようとエッシェンバッハがホテルや街の人々に問うても、「ただの街の清掃ですよ」とはぐらかされるばかりだ。ホテルの滞在者の数も日を追うごとに減った。それでも少年タッジオは〈美〉の化身として、浜辺や街角やホテルのロビーに揺蕩っている

 そしてある日の午前、その美神が波打ち際で友人たちと戯れる姿を海辺の安楽椅子から莞爾(かんじ)と眺めながら、病み衰えたアッシェンバッハはコレラによって絶命する。

 「小説では二、三週間続いて、アフリカからの蒸し暑い風が吹き、ヴェネツィアが潰れ落ちるという感覚に満たされ、町は空になり、困惑と不快感が入り混じった感覚が訪れる」。監督のヴィスコンティは死に誘われる主人公のアッシェンバッハの心象と、舞台となったヴェネツィアの風景をそう記している。

(Renata Tyburczy/gettyimages)

 〈大雑把に言うと、1911年から18年というのは、(原作者の)マンだけでなく、ヨーロッパのすべてのブルジョワ文化が行き詰まってしまって、すべての問題が新しい光の下に立たざるを得なくなります。そして戦争が古い解決方法や古代的幻想をすべて掃蕩してしまうのです〉(『ベニスに死す』をめぐるヴィスコンティとの対話)

 芸術家の美の理想と老い、そして死という主題の三位一体の完成形として、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』は名高い。映画では冒頭で主人公が乗った蒸気船がリドに近づく場面で、マーラーの交響曲第5番、アダージェットの美しい旋律が高まってゆく。その倍音(ハーモニクス)というべき新しい「死の舞踏」が、20世紀初頭の世界を席巻したコレラというパンデミックを通して、この映画のなかに造形されている。

 それは、歴史に深く刻印された文明の暗喩と呼ぶべきであろう。

 
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