2025年12月5日(金)

絵画のヒストリア

2025年3月9日

「死の舞踏」という固有の造形の様式

 マクニールがここで「思想と感情の暗い空気」と呼ぶのは、人々の間に広く浸透してゆく〈メメント・モリ〉、つまり「死を思え」という普遍的な感情の広がりにほかならない。

 健康な人間がこの疫病にかかってほどなく、不条理の死に追いやられる。そうした事例が身近に頻繁に起これば、それは必然的に「人間の生についての暗いヴィジョン」へ人々を導いた。「絵画も、突然の不可解な死に繰り返し直面することで引き起こされた、人間の生についての暗いヴィジョンを反映した」とマクニールは指摘している。

 生ける者はだれでも突然訪れる死と隣り合っている。そんな生命観を反映させた〈メメント・モリ〉の思想は、ペストのパンデミックを経験した中世社会に「死の舞踏」という固有の造形の様式を生み出し、15世紀にはいると欧州北部を中心に広く流通した。

 骸骨の姿をした〈死〉の表象が楽器やツルハシ、砂時計などの形を伴った「死の舞踏」の表象として、木版画や壁画などに各地で頻繁に描かれた。「気まぐれで説明のつかぬ破滅をも視野に入れた世界観だけが、ペストの冷厳な現実と両立しえた」というマクニールの指摘は、やがて人々のカトリック教会に対する信仰の基盤を揺るがす大きな要因のひとつになってゆくのである。

 「15世紀に於ける程強く徹底的に、死の思想が人々の胸深く食い込んだ時代は他にない。絶えず『メメント・モリ』(死を思え)という声が生活の中に響いていた」。歴史家のヨハン・ホイジンガは著書『中世の秋』のなかでこう述べる(兼岩正夫・里見元一郎訳)。

 フランンドルの画家、ピーテル・ブリューゲルが『死の勝利』というタイトルの油彩画を描いたのは1562年ごろといわれる。

ピーテル・ブリューゲル「死の勝利」(1562頃)プラド美術館蔵(Pieter Brueghel, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons)

 中世の村落に暮らす農民たちの平和な日常をとらえた画家の、優しくも辛辣なまなざしは、封建的な共同体社会の庶民の暮らしを内側から細密に描いて、人々に印象づけられている。アントワープを拠点にしていたこの画家は1552年ごろからおよそ2年間イタリアに滞在して、聖書や人間と社会を巡る寓意画の世界へ大きく眼を開いた。

 「死の勝利」は「死の舞踏」と並んで、中世の西欧社会に広がる〈メメント・モリ〉、つまり「死を思え」の思想を伝える絵画様式として、主にイタリアの各地の教会や広場のフレスコ画に描かれた。ブリューゲルの『死の勝利』は、イタリアで見たその様式の影響を深く受けた作品とみられる。

 微笑ましくも冷徹に庶民の生活を描いたブリューゲルの作品になじんだ目には、あまりにもおどろおどろしい画面である。

 遠景では火山が噴火し、重く雲が垂れこめた空の下で海上の船が炎上している。丘の上では斬首されようとしている男がいる。前景はさらに断末魔の気配がある。

 骸骨が隊列を組んだ〈死〉の軍勢が人々を襲って、斬首や絞首、火刑などで次々と殺している。手前の王は甲冑に身を包んだまま死に絶え、乱れた食卓では着飾った貴婦人が骸骨に凌辱されている。それでもまだ、片隅で楽器を奏でながら愛を囁くカップルがいるが、そこにも骸骨が背後から忍び寄る。


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