日本でコンプライアンスという言葉がよく使われるようになったのは、西暦2000年前後であった。前世紀末に金融危機による金融機関の破綻が相次いだ際に、破綻に至る中で数多くの乱脈融資などが社会に衝撃を与えたことが契機とされる。けれども、バブル崩壊による資産の価値崩壊は90年前後から始まっていたわけであり、各社は経営幹部への責任追及を回避するために、違法行為に関する時効を待って「処理」を始めた経緯がある。

そうした根本的な問題へのメスは入らぬまま、とにかく法令違反は良くないという曖昧な「空気」がこの頃から拡散を始めた。コンプライアンス、つまり法令や社会規範の忠実な遵守というのは、間違ったことではない。いや、社会を維持するために最も必要な態度と言ってもいい。人類の歴史を顧みるのなら、法秩序などない時代から、法や社会制度が整備され、個人の権利が尊重される社会へと発展を遂げてきた。
一般的には、法令や制度とは目に見えないインフラであり、整備されるに従って、個人や企業としては「やっていいこと」「やってはいけないこと」が明確となる。したがって、より効率良く経済活動ができるし、国はより繁栄する。そしてさらなる繁栄により、さらに法制度を理想に近づけることができるはずだ。
もちろん、法令や制度の整備には短所もある。それは過度の規制により経済効率が損なわれることだ。
例えば労働者の権利を過剰に保護すれば企業経営のコストは高くなって国の競争力はスローダウンすることがある。環境規制にしても、金融面でのリスクの許容範囲でも似たような問題はある。けれども、こうした葛藤に各国は思想や政策の対立軸から選択肢を提示して、民意を問うことで対処してきた。
ところが、日本の場合はどうも様子が違うようだ。コンプライアンスへの意識が高まることで、様々な問題が出ているからだ。例えば、「コンプライアンス違反倒産」が問題になったり、企業や各団体においてはコンプライアンスに取り組むことで、現場が萎縮したり人材確保が難しくなったりという声がある。
また、過度なコンプライアンスへの意識は、いざという時に企業が努力して問題を解決する力を削いでしまうという声もある。その一方で、不祥事への対処において、コンプライアンスを意識するあまりに、情報公開が遅れるなど企業の姿勢が、まるで肥大化した官僚制度に縛られたように見えることもある。