2025年1月31日(金)

Wedge OPINION

2025年1月29日

 名著『失敗の本質』の著者で「知識創造経営」の第一人者である一橋大学名誉教授で経営学の野中郁次郎氏が1月25日に亡くなった。野中氏は、平成の30年間で日本企業が活力を失った要因として、米国型マネジメント、そして成果主義など欧米式人事管理への偏重に警鐘を鳴らしていた。
 Wedge2019年8月号では、日本企業が失った「組織的な知的創造力」の必要性を訴えていた。日本が再び輝きを戻すために、記事を特別公開いたします。

 バブル崩壊から約30年が経過した。平成から令和へと時代が移ったが、日本企業の活力は失われたままだ。バブル景気だった1990年度の実質GDP成長率は5.6%だったが、バブル崩壊以降、低迷が続き、2018年度の実質GDP成長率は0.7%だ。

野中郁次郎(Ikujiro Nonaka)一橋大学名誉教授 早稲田大学政治経済学部卒業。富士電機製造勤務ののち、カリフォルニア大学経営大学院(バークレー校)にて博士号(Ph.D)を取得。防衛大学校教授、北陸先端科学技術大学院大学教授などを経て現職。『直観の経営』(共著、KADOKAWA)など著書多数。

 なぜ低迷が続いてしまったのか。その最大の原因は日本企業の経営手法が米国発の科学的アプローチに偏りすぎたからだと考えている。バブル崩壊で経営の自信を失った日本企業は、平成の30年間、米国で流行りの経営手法・指標やツールを導入し、MBA(経営学修士号)取得を奨励するなど、米国型のマネジメントを積極的に取り入れた。この米国型のマネジメントへの偏重が、日本企業から組織的に新たな付加価値を創出する力、つまり「組織的な知識創造力」を奪ったと考えている。これは元々日本企業が持っていた何より大きな強みだった。

科学的アプローチの限界
生かされない「暗黙知」

 米国型のマネジメントは「形式知」を基礎にし、科学的なアプローチを重視するものが多い。形式知とは、言葉や数字で表すことができ、時空間を超えて「いつでも、だれもが、どこでも」使えるように明示的なデータや手法、マニュアルなどの形で伝達・共有される。米国の経営学者であるマイケル・ポーターの競争戦略のように産業構造を分析し、戦略を考え、実行するのが米国型マネジメントの典型例だ。

 しかしこうした分析や計画から出発する戦略論など、形式知による科学的アプローチには限界がある。その理由は次の三点に集約できる。

 第一に、形式知的なアプローチにおいては、経験や五感から直接的に得られる無意識や言語化が難しい「暗黙知」は重視されない。暗黙知とは、いわば「今、ここ、わたしだけが」経験している全人格的な知識(パーソナルナレッジ)であり、現場の文脈に深く依存する。信念やものの見方、価値観といった無形の要素を含んでおり、主観から新たな意味づけ、価値づけが行われるのである。つまり、暗黙知から出発しなければ、新たな知識を創造することはできない。

 第二に、科学的アプローチはトップダウンの経営手法が中心であり、組織の構成員が持つ大量の暗黙知が、自律分散的に活用されることを想定していない。そうなると、フロントの現場で現実・現物に直面している組織メンバーの知識が生かされることなく、組織は硬直し、環境変化に機動的に対応できなくなってしまう。

 第三に形式的な数字ばかりを意識してしまうと、カイゼン思考に陥り、本来の競争力の源泉である新たな付加価値をもたらす飛躍的な発想が生まれず、創造的なイノベーションが起こせなくなってしまう。

 米国型マネジメントに偏りすぎた日本企業は、オーバープランニング、オーバーアナリシス、オーバーコンプライアンスという「三つの過剰」に陥ったと言える。経営において、「計画」「分析」「法令順守」はすべて必要な要素だが、日本企業はこれらを忠実に行いすぎたのではないか。

 三つの過剰に陥ったことで、社員が知識創造を行える自由闊達な環境が失われ、本来の企業の存在意義である「社会のために付加価値を創造すること」を軽視するようになった。

 また、米国型マネジメントは合理化を促し、組織から一定の冗長性(ムダ)を失わせた。かつて日本企業が元気だった頃の「健全な赤字」のコンセプトが懐しい。


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