「1つの問いかけ」で救われた子ども時代
山本:泰子さんには、以前にも横浜創英や新渡戸文化学園の子どもたちのために授業をしていただきました。その時もそうだったのですが、僕と話す時も必ず「今日は一緒に学ばせていただきます」とおっしゃりますよね。僕たちの世代や、もっと若い世代の教員や子どもたちにも常に対等に接していただき、僕もいつも心強く思っています。
木村:ありがとうございます。みんなそう言ってくれはるけど、私は日本中の先生たちや子どもたちのことを、ともに未来を考える仲間だと思っているんですよ。

「みんながつくるみんなの学校」を合い言葉に、すべての子どもを多方面から見つめ、先生たちのチーム力で「すべての子どもの学習権を保障する学校をつくる」ことに情熱を注いできた。地域の人々の協力を得て教職員と子どもとともに学び、育ち合う教育を具現化した。2015年春、45年間続けた教職を退職。以降は全国で講演活動を行う。
山本:まさに泰子さんには対等なコミュニケーションの視点がいつもあるんですよね。今回の対談では、誰も取り残さない「みんなの学校」を日本中で実現していくにはどうすればいいのか、じっくりうかがえればと思っています。まずは泰子さんのキャリアの原点についてお聞きしたいのですが、泰子さん自身はどんな子どもだったんですか?
木村:小学校の6年間、「学校って楽しいな」と思ったことは一度もありませんでした。学校の先生って、子どもをいじめるためにいるんじゃないかと思っていたくらい。だから私は先生になりたいなんて、ただの一度も思ったことがなかったんですよ。
山本:それはとても意外です。なぜ学校を楽しいと思えなかったんですか?
木村:理由はいくつかありますが、強く記憶に残っているのは大嫌いなプールの授業があったことです。私は運動全般が大好きで、運動会のかけっこなどはいつも1位。鉄棒は目が回るくらいくるくる回るし、跳び箱も「もっと高い段を用意して!」と思っているような子どもでした。でもそんな私なのに、水だけはどうしても苦手でプールに入れなかったんですよ。
山本:そうだったんですか。僕は水泳は嫌いじゃなかったですけど、学校では先生の言う通りにしかできないのであまり好きな時間ではなかったですね。泰子さんはプールの時間はどうしていたんですか?
木村:小学校の間はずっと、プールの授業の時だけ「耳が痛い!」なんて言って仮病を使って休んでいましたね。でもその学校は、今にして思えば体育の指定校になっていて、6年生になると「全員が25メートルを泳げるようになる」という目標が掲げられたんです。
山本:子どもたち全員に一律で目標達成が求められるようになったんですね。
木村:はい。私だけはどうしてもプールに入りたがらないので、先生たちも困っていたんでしょうね。家までやってきて「小杉(泰子さんの旧姓)は体育が得意なんだから、プールに入れば絶対泳げるようになる!」と言われ、母のことも説得し、私は水着を着せられて無理やりプールに連れていかれたんです。崇雄さんは、水が本当に怖い子どもの気持ちって分かりますか?