沖縄問題を安易に解決しようとせず、対話を図っていく。決裂に至らぬよう持ちこたえることこそ、現代の日本に求められている。「Wedge」2025年7月号に掲載の特集「終わらない戦争 沖縄が問うこの国のかたち戦後80年特別企画・前編」の内容を一部、限定公開いたします。
軍事基地と医療には似た性格がある。どちらも平和な暮らしに不可欠だが、あまりに必要性を強調しすぎると、逆に命を傷つけてしまう。
潔癖症のように手洗いに没頭したら、皮膚が破けて血が出てくるし、カロリーの表示ばかりを始終気にすると、メンタルを壊して摂食障害になる。「健康」には、意識せずにいると失われるが、しすぎてもかえって自らを損なう、厄介なジレンマがある。
実は「国家主権」も、同じ特徴を持っている。領土紛争は「主権潔癖症」みたいなもので、わずかでも自国の主権が損なわれるリスクはイヤだと、各国が過敏になることで生じる。相手国へのアレルギーを互いに亢進させれば、時に戦争になる。
沖縄の有事は「尖閣問題」から起きると、あらゆる人が口にはするが、当の尖閣諸島の地理的な位置を、正確に知る人はほとんどいない。どこにあるかも知らぬ島のために、命を懸けるのも変な話だが、しかしそうした問題を意識しておかないと、主権に基づく平和は守れない。
互いに「放っておけば」トラブルを回避できる小さな島嶼まで、排他的にどの国の領土かを決めないと納得できないのは、主権国家というシステム自体の〝欠陥〟なのだ。ところが令和に入るや、あたかも主権国家が完全無欠で「無謬の規範」であるかのように、錯覚する人が増えている。
理由は単純だ。2020年からの新型コロナウイルス禍では、感染の回避を絶対視しすぎて国民の生活を損ねる、過剰な「健康」への固執が見られた。それをなぞる形で22年からのロシア・ウクライナ戦争が、国家主権への潔癖症を助長した。