14年以来の紛争地域だったドンバス(ウクライナ東部)は、どの国の主権に服するのか。親ロ派の武装勢力による「独立国家」を、ロシアほか少数の国のみが承認し、多数派の諸国は認めないといった落としどころで収まっていれば、今日ほどの犠牲は出なかっただろう。
だが、一度でも戦争が始まると、そうした領土の帰属を「曖昧にする」解決には、もう戻れない。
独自の国だった琉球王国
日中は帰属を気にしなかった?
「沖縄問題」もまた、ある意味でドンバス問題に似ている。というか周知のとおり、かつて琉球王国という独自の国家を持った点では、ロシア・ウクライナ間の紛争より複雑だ。
琉球をめぐり日中が全面戦争に陥る事態が起きなかったのは、そもそもアジアに主権国家がなかったからである。
徳川幕府と清朝の時代、沖縄はすでに薩摩の実効支配の下にあったが、琉球王国は存続し、清への朝貢も継続していた。重要なのは、その事情を日・琉・中の三国がみな、知らないのではなく熟知した上で、互いに気にしすぎず、あえて〝放置〟していたことだ。領土の帰属を「ひとつの国に限る」国家主権の原理が、存在しないあいだはそれが普通だった。
ところがここに、主権に基づく欧米諸国が介入し出すと、困ってしまう。「琉球は独自の国なのか、そうでないなら日中どちらに属するかを、はっきり答えろ」と問い詰めてくるからだ。実はかのペリーにせよ、日本と同じ1854年に、琉球王国とも独自の和親条約を結んでいる。フランスやオランダも続いたが、後に薩摩の実効支配が知られた結果、仏蘭は調印した条約を批准しなかった(拙著『翻訳の政治学』岩波書店)。
「この土地はどの国に属し、われわれはいかなる国民か」
世界のどこでもこの問いに、一義的な答えを設けよというのは、ひどく神経質な考え方である。とはいえ、それに従うことで、なし崩しの外国による支配を免れ、同じ国民としての相互扶助も手に入る。だから、無下に否定するわけにもいかない。
問題は、そうして導入された主権国家の内側が、均質な空間にはならないことだ。どこに軍隊が駐留するかは、国境線との遠近で変わる。
新しく「編入された」と見なされるグループには、国民の権利の付与も遅い。日本で最初の衆議院選挙(帝国議会)は1890年だが、沖縄本島での初の実施は、明治が終わる1912年で、先島諸島に至っては8年後の20年からだった(拙著『荒れ野の六十年』勉誠出版)。
過酷な沖縄戦を経た冷戦体制の下で、日本内地と沖縄の格差は最大となる。72年まで沖縄を統治する米国にとっても、同地が中国をはじめとしたユーラシアの共産勢力に対する「国境」になったためである。
