2025年12月5日(金)

終わらなかった戦争・後編サハリン

2025年8月1日

被害国の歴史家と
教科書会議を実施

 子どもたちへの歴史教育にも、大きな違いがある。筆者が1980年代に西ドイツの歴史教科書を初めて読んだ時に驚いたのは、ナチスの時代に100頁近い頁数が割かれていることだった。教科書には、アウシュビッツ強制収容所でガス室に向けて歩かされるユダヤ人の母子、ドイツ兵に銃殺されるロシア人の写真など悲惨な写真が多く使われていた。

 ギムナジウム(高等中学校)で見た歴史の授業では、教師がガス室で殺されたユダヤ人の遺体の写真を見せながら、生徒たちに「なぜこのような事態が起きたのか。なぜ当時のドイツ人は政府に反抗しなかったのか」について、意見を言わせていた。歴史との対決は、心に深く〝刻み込む〟必要があるからだ。

ドイツの歴史教科書(TORU KUMAGAI)

 さらにドイツの歴史学者たちは、かつての被害国と定期的に教科書会議を開くことによって、教科書の記述を正確かつ公平にするための努力を続けてきた。

 中心的な役割を果たしたのが、51年にブラウンシュバイクに設置されたゲオルグ・エッカート国際教科書研究所(GEI:今日ではライプニッツ研究所に属する)だ。

 GEIは、ポーランド、フランス、英国、ロシア、米国、オランダ、デンマーク、ハンガリー、ルーマニア、イスラエル、チェコ、スロバキアなどと教科書会議を開催した。

 89年に筆者がこの研究所を訪れた時、エルンスト・ヒンリヒス所長(当時)は、「45年から65年までにドイツは旧被害国との間で146回の教科書会議を実施した」と語った。ドイツが教科書会議を最も頻繁に行ったのは、ナチス支配によって深刻な被害を受けたフランスとポーランド、そしてイスラエルだ。ドイツの歴史学者たちは、2006年にフランスの歴史学者とともに、独仏の歴史についての合同教科書も出版した。両国の若者たちが、偏見を持たずに両国の関係の歴史を学べるようにするためだ。

強制収容所跡地で草取りのボランティアをするドイツの若者(TORU KUMAGAI)

 筆者は1989年に、ボンでヴィリー・ブラント元首相をインタビューしたことがある。69年から74年まで西ドイツ首相だったブラント氏は、歴史との対決と被害国との和解を最も重視した政治家の1人だ。彼が70年にワルシャワ・ゲットーの慰霊碑の前で跪いた映像は、世界中を駆け巡った。ブラント氏は、筆者とのインタビューの中で、「私は今の若者たちに、前の世代が犯した罪の責任を負わせることには反対だ。しかし、若者たちは、ナチスが犯した罪について学ぶ義務がある。それは、他の国々がなぜ我々ドイツ人を批判的に見るのかを知ることにもつながるからだ」と語った。

 ドイツにはダッハウ、ベルゲン・ベルゼンやラーベンスブリュックなど強制収容所の跡地に作られた博物館・追悼施設がある。またミュンヘンで「茶色の家」と呼ばれるナチス党本部の建物があった場所には、ナチス時代のドイツやミュンヘンについての資料館がある。これらの施設に共通しているのは、「ドイツ人が加害者となったこと、そして市民がナチスという犯罪者の集団を選挙によって権力に就けてしまったこと」への反省である。日本とは異なり、「ドイツ人は戦争の被害者だった」という視点は見られない。日本の戦争に関する資料館では、「日本人は戦争の被害者だった」という視点が目立つ。


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