「飛沫感染」か「空気感染」か
政策転換の背景には、もう一つの科学的論争があった。それは、公衆衛生の世界に長年根付いてきた「飛沫感染が中心」という考え方への挑戦、すなわち「空気感染(エアロゾル感染)」の存在をめぐる対立である。
当初、WHOやCDCは、呼吸器疾患の感染経路を、大きな「飛沫」と、長時間空中を漂う微小な「エアロゾル」に二分し、新型コロナは主に飛沫で感染すると断定していた。WHOは20年3月、「新型コロナは空気感染ではない」と明言し、空気感染の可能性を「誤情報」とまで呼んだ。
しかし、多くの研究者がこれに異を唱えた。合唱団での集団感染のように、ごく少数の感染者が極めて多くの二次感染を引き起こす「スーパースプレッディング現象」は、空気感染でなければ説明が困難だと指摘したのである。そして20年7月、239人の科学者がWHOに公開書簡を送り、空気感染のリスクを認めるよう強く求めた。
この圧力の結果、WHOとCDCは不本意ながらも段階的に空気感染の可能性を認め、ガイダンスを更新した。彼らが抵抗した背景には、空気感染を認めると、飛沫感染を前提としてきた病院の感染制御体制を根本的に見直さなければならなくなる、という深刻な問題があったからである。
結果として、対策の優先順位は根本的に変わった。マスク、手洗い、社会的距離の維持だけでは不十分で、屋内の換気が極めて重要になったのである。同時に、微小なエアロゾルへの対策として、布マスクやサージカルマスクよりも、顔に密着する高品質なN95マスクなどの重要性が増した。
マスクの種類と効果の違い
マスクの有効性をめぐる議論が混乱した一因は、マスクの種類の違いと、科学的証拠の解釈の違いにある。マスクの有効性は「フィルターのろ過性能」と「顔へのフィット感」という2つの要素で決まり、これらが「飛沫」と「エアロゾル」という2つの感染経路への対応能力を左右する。
N95マスクは、顔に密着し、微小なエアロゾルを95%以上ろ過する。飛沫と空気感染の両方から着用者を保護する最も効果の高いマスクである。
サージカルマスクは、大きな飛沫を防ぐが、顔との間に隙間ができやすく、エアロゾルの吸入を防ぐ効果は限定的である。日本で販売されている不織布マスクのうち、JIS規格に適合したものだけが「医療用マスク」や「サージカルマスク」として販売できる。
布マスクは、主に着用者からの飛沫の拡散を防ぐ(他人にうつさない)効果はあるが、フィルター性能もフィット感も低く、着用者自身の感染を防ぐ効果は最も低いとされる。
