河北省濼県で生まれた浦弁護士は、子どものいなかったおじの養子として育てられた。養父はいくらか土地を持つ「富農」と認定され、共産党の迫害を受けた。浦弁護士は優秀な成績でエリート校の南開大学歴史学部に入学し、大学では教授に共産主義青年団への入団を勧められたが、養父が経験した数々の苦難を思い出し、大きなコストを払わなければならないことを覚悟に断った。
1989年の天安門事件時、浦弁護士は中国政法大学の大学院生だった。セメントをつめるズタ袋をベストに加工して着用し、そこに「新聞づくりの自由、結社の自由」と書き、ハンガーストライキに参加した。その結果、事件当日の6月4日を前に浦弁護士は倒れてしまった。ボランティアで待機していた医学生に介抱してもらったが、「その医学生が現在の妻だ」と、浦弁護士は今年2月の来日時に照れながら教えてくれた。浦弁護士は元々、大学教授を目指していたが、天安門事件に参加したため大学に残ることはできず、幾度かの転職を経て、1995年に弁護士資格を取得した。
2001年、浦弁護士は米国に招待され、司法長官に弁護士として成功した秘訣を尋ねられた際、こう答えたのだという。「今の自分があるのは、大学で法律を勉強しなかったからです。自分は“偽物の弁護士”ですが、歴史はよく知っています」
浦弁護士は、中国の弁護士の多くは歪んだ法学教育に毒され、それが中国の司法制度を改革し、法の支配を定着させられない原因にもなっていると考えている。また、歴史と正面から向き合うことが中国社会をよくするために重要だと認識し、自分が大学で歴史を専攻したことを前向きにとらえていた。
*後篇へ続く
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