中国の歴史観の中で、不老不死を願うのが不吉であり権威を傷つける行為である一方で、惜しまれて亡くなった指導者への追悼行動が社会を動揺させるという問題もある。例えば、1976年に反文革運動の契機となった四五天安門事件は周恩来への追悼の花輪が撤去されたことへの抗議から始まった。また1989年に民主化運動を鎮圧した六四天安門事件の場合も、亡くなった胡耀邦への追悼行動が契機となっている。
現在の中国では夭折した前国務院総理の李克強氏への追悼行動が、静かに出たり入ったりしている。中国共産党としては、不動産バブル崩壊の痛手の中で、政府の権威を高めるためには人材登用の見直しも取り沙汰されており、人事に関しては神経質にならざるを得ない。そんな中で、仮にも習近平氏が「不老不死を願っている」という話が必要上に拡散するのは、習氏の権威を傷つけることになる危険性がある。
中国ではすでに「人事の季節」か
現代はSNSが発達しており、その最大の欠点として短い「切り取り動画」によって、本人の意図しない形で発言の一部が拡散して、手のつけられないような効果を生むことがある。そんな中では、やはり最高指導者が「不老不死を願う」というのは、不吉であり権威を自損する言動になる。
今回の「雑談トーク」については前述したように、表面的には毒にも薬にもならない内容であるが、その深層には後継人事のあるなしという政治的な「危険な腹芸」を含んでいる。この「危険な腹芸」の層においては、習近平氏のジャブも返しも完璧であった。
けれども、それとは別にさらに深層にある「中華世界の権力闘争という文明」の中では、やはり「不老不死トーク」とか「150歳まで」というのは、タブーに触れていたのである。さらに言えば、当局が「削除要請」から「使用不許可」と厳しい対応を見せたということは、現在進行形で中国が「人事の季節」を迎えていることを示している。
