「最後」というのは、近年でここまで食べものへの関心が増したのはなかったからである。もしこの機会を逃せば、次に世界的な気候変動による飢餓が迫り、輸入に頼れなくなったとき、今よりも大きな騒動が起こるだろう。ただ、そのときにはもう遅いのである。
「米食悲願民族」だった
かつての日本人
明治維新以降、この列島で毎日ジャポニカ米を食べることができた人はそれほど多くなかった。ジャポニカ米の代わりに、ビルマ(現在のミャンマー)やタイやフランス領インドシナなど東南アジアから輸入したインディカ米を食べられる人はまだ良いほうだった。コメの代わりにサツマイモや麦や雑穀や、東京のスラムだと士官学校の給食の残飯によって生きてきた人たちも多かった。
1895年に台湾、1910年に朝鮮半島を併合した日本は、そこからもコメを調達した。しかも、台湾では、「蓬莱米」(最も生産されたのは「台中65号」)のように、日本人の好みにあった粘り気のあるジャポニカ種で、現地での生産環境に耐えうる品種改良を行い、現地での生産を進めた。収量が上昇するので、もともとチャレンジ気質のある農民は利益を得たが、その分だけ多く肥料(当時は大豆かすか化学肥料)を購入しなければならず、必ずしも現地では歓迎されたわけではなかった。
台湾では化学肥料が生産されていなかったので、日本や朝鮮(たとえば、水俣病の原因企業となる日本窒素肥料や昭和電工)から移入せざるを得なかった。また、台湾の人々は、ジャポニカ米に慣れておらず、それらをもう一回茹でてとろみを除いて食べるか、みずから育てたインディカ米を食べるか、インディカ米を買うか、当時日本の農業経済学者川野重任によって「民食」と呼ばれたサツマイモを食べるかした。
ここに、私が研究の中心的概念としている「フードパワー(食権力)」の萌芽を見ることができる。
※こちらの記事の全文は「コメと日本人」で見ることができます。
