森村泰昌 肖像(ヴァン・ゴッホ)1985年
C-print
courtesy of the artist
森村がゴッホになったのは、1985年5月のこと。場所は、焼肉の煙と匂いが空気にしみ込んだような大阪の鶴橋。幅が広くてぶ厚いゴムバンドで髪を押さえて長時間ゴッホと格闘していたため、動脈が圧迫されて失神したという。倒れているのは森村なのかゴッホなのか、想像するだけで危なげな現場で、既存の何にも当てはまらない森村独自の世界が産声を上げたわけだ。ゴッホの心身の痛さまで再現されたような粘土と釘で覆われ、生の部分は血走った森村自身の目だけという作品は、パロディーなのかオリジナルなのか、絵なのか写真なのか、そっくりショーなのか芸術なのかと人々に衝撃を与えた。
「自分の顔をカンバスに絵を描いて、服は重くて、帽子も耳も痛い。何だかゴッホさんと一緒に落ちるとこまで落ちていくみたいで、何でこんなことを自分はやっているんだろうと思う。何がどうなるのかもわからない。ふと我に返ると何だか情けなくなったりして。一枚の絵の中には画家の心と身体が乗り移っている。そこに侵入していくわけです」
迷える日々
絵の中に侵入する、作家の全人格の中にまで侵入するという言葉を森村は使う。その最初の侵入先が「なぜゴッホだったのか」という何度もぶつけられた問いに、森村はいつも「なぜかゴッホだった」と答えている。85年、森村は35歳だった。当時、師事した写真の先生から誘われて京都市立芸術大学で非常勤講師をしていた。ある日、暗室に忘れた写真を取りに行ったら、学生たちが森村の写真を「陰気だ」「カッコ悪い」と酷評しているのを偶然耳にした。ついたあだ名は「ネガ」だった。ポジに対するネガである。
「何か表現したい気持ちは渦巻いているのに、その方法が見つからない。自分が何をしたいのかわからない。長い間、試行錯誤していましたね」
森村と美術との最初の出会いは、中学のころ。誰もが当たり前のように水彩絵具で描く夏休みの宿題の絵を、ひとりだけ油絵で仕上げてきた生徒がいた。初めての油絵具の匂いに惹かれて、高校では美術部に入って油絵を描こうと決めた。まるで体育会系のようにひたすら絵を描く高校美術部を経て、京都市立芸術大学に入学したものの、なぜか文学部への転部を考えたりしたという。自分の居場所は本当にここでいいのかという試行錯誤はどうやらこのころから始まったらしい。