国語家庭だった青春時代
日本軍への慰問の経験も
「あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかえ うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」(あめふり)
はっきりとした日本語で童謡「あめふり」を歌うのは、32年生まれで台北・新店出身の呂秀文さんだ。父は高雄港の開発に尽力した浅野総一郎が設立した浅野セメントに勤め、母は第三高等女学校(現・中山女子高級中学校)卒業後、国語教師をしていた。「家でも学校でも日本語を話していて、私の日本語の名前は宮川文子でした」と呂さんは話した。
土山さんによると、優秀な台湾の人が通うことができる第三高等女学校は30倍もの倍率だったという。また、家族全員が日本語を話すことができる「国語家庭」だと、改名することができ、配給も増えた。
呂さん自身も、台湾の人が通う公学校ではなく、試験を受けて日本人が通う建成小学校に入学した。
「成績順に教室の後ろから席が決められており、私はいつも後ろから二番目の列。どの教科も得意でした。ただ、日本人の子どもたちに言いがかりをつけられて、いじめられてしまいました。私は引っ込み思案な性格だったのですが、いじめに我慢できなくて、『もう学校に行かない!』とみんなの前で言ったら、びっくりされたことを覚えています」
呂さんは小学5年生の時、父親の仕事の都合で、大陸の広東省に引っ越した。当時の思い出は日本軍を慰問したこと。「母は機転の利く人で、慰問を企画したのです。私が歌を歌い、妹がピアノを弾きました。兵隊さんたちはとても喜んでいました」。
こうしたことが奏功したのだろうか。終戦より少し前、呂さん一家は幸運にも軍用飛行機で台湾に戻り、台湾で終戦を迎えた。
「戦後は静修女学校に入り、北京語で授業を受けていましたが、言葉がわからず、答えを丸暗記していました。新しく言葉を覚えるのは大変でしたが、子どもだったこともあり、順応できました。外では北京語と日本語をちゃんぽんして話していたこともあります。今、同年代と話す時は日本語を使用することもありますが、同窓会では北京語ですね」
呂さんは毎週末教会に通い、土山さんの聞き取りにも協力する。
「今の若い人は、昔の台湾のことへの関心は低く、知らないことも多いですが、教会では日本語を使う牧師がいるため、日本語を勉強するために若い人も来ます。何かを伝えたいというよりも、私はただ覚えていることを話しているだけですが、やっぱり、どんな民族でも仲良くしていくのが一番大事だと思います」
土山さんは、日本語世代への聞き取りを行う中で、特に印象に残っている話がある。
「ある日本語世代の方に、『台湾のことを親日だと思っているよね?』と言われたことがあります。その方は、『確かに若い人は親日かもしれない。けれど、日本語世代は、親日なのではなく、〝懐日〟なんだ。戒厳令下の台湾の治安は悪く、その時代と比較して、日本統治時代の方が良かった。懐かしんでいるだけだ』と。そのように伝えられ、複雑な思いになりました」。小誌記者はその言葉の意味をもう一人の日本語世代を取材中、知ることになる。
