もし、本当に高度経済成長が原因となってどんどん国民の意識が「中」になっていたのならば、格差社会になれば今度は上下にわかれていくはずなのですが、実際にはその後のデータは何の変化も示しません。
――でも、その時代を生きていた人たちは総中流だと思っていましたし、だからこそ、あの時代は良かったと。これはメディアの力が大きかったのでしょうか?
吉川:確かに表面的にはそうでしたが、私はメディアの報道に大きく左右されるような表面的な世論の動きを語っているわけではありません。
これは本書を書いた理由でもあるのですが、現在のように予測の難しい新しい出来事が次々に起きると、時代の大きな動きには目が行きにくくなりがちです。たとえば世の中がハードウェアとソフトウェア、そしてアプリから成り立っていると考えてみます。ハードウェアとして、日本社会の経済や政治などのインフラや組織と呼ばれる部分があります。ここについては「閉塞している」だとか「雇用が流動化している」といった、どう変化しているかという事実に基づいた議論があります。他方で、実際に人の目に触れるアプリに相当するものとしては「ヘイトスピーチ」や「若い女性たちの専業主婦志向」といった社会の現象が見えている。
しかし、その間にあるソフトウェア、「社会の心のプラットフォーム」と呼んでいますが、ここについては誰も語らないし、仕組みが説明されないまま放っておかれている。だから、何が起こるかわからなくなって、メディアの報道によって右往左往するのです。社会学者はその点について、社会の構造と社会関係や社会意識のあり方の関係をきちんと論じるのが役割です。
そのように社会を見ていくと、85年は、日本人の社会の心が根拠なくポジティブだった。それを本書では「幻影的平準化状況」と表現しています。つまり、「1億総中流」で、みんな豊かで平等な社会になったという明るい気持ちを社会全体が共有していたということです。それに対し現在は「覚醒的格差状況」と呼ぶべき時代状況にあります。要するに今の日本人はその当時の酔いから醒め、正確に社会のしくみを理解できるようになっているということです。よく、「あの時代は良かった」といわれるのは、酔っていれば何も考えなくて済みますから、気持ちが良かったというだけのことだと。あの時代は本当に平等だったのではなく、実在する格差に、一人ひとりが目配りをしていなかっただけだと言えるでしょう。