2024年11月22日(金)

佐藤忠男の映画人国記

2014年12月19日

 井上梅次(1923~2010年)は京都市生まれ。慶応大学出身で新東宝で修業して監督になった。日活に移籍して、まだ新人だった石原裕次郎を一気にブレイクさせた「嵐を呼ぶ男」(1957年)で注目された。職人的な腕の確かさでコンスタントに儲かる映画を作った人である。その腕を買われて香港で映画を作ったこともある。要領のいい撮影の進め方を評価されたのである。

 大谷健太郎は京都府生まれ。多摩美術大学の学生時代の8ミリ作品がぴあフィルムフェスティバルに入賞して独立系の監督になる。小味な喜劇が得意で「avec mon mariアベック・モンマリ」(1999年)などがある。

 豊田四郎(1906~77年)は京都市生まれ。松竹蒲田撮影所で島津保次郎の助手から監督になったので、映画全盛期のいちばんの正統派である。ハンセン病の療養所の女医の物語である「小島の春」(1940年)が戦争中に絶讃を浴び、以後文芸映画の巨匠となった。代表作は森繁久彌の出世作となった「夫婦善哉」(1955年)だろう。

 中江裕司は京都市出身。大学は琉球大学で沖縄で自主映画をはじめ、「パイナップルツアーズ」(1992年)や「ナビイの恋」(1999年)など、微笑ましい沖縄映画をつくり出した。

 三隅研二(1921~75年)は京都市生まれ。日活京都撮影所の助監督から召集され、シベリア抑留をへて戦後大映京都撮影所で監督になった。正統時代劇の技術を最も正統的に身につけた第一級の職人監督である。「座頭市物語」シリーズの中心的な監督である。

 林海象は京都市生まれ。立命館大学中退で、異色のインデペンデント作品「夢見るように眠りたい」(1986年)が評判になった。現在、京都造形芸術大学芸術学部映画科教授である。

(次回は京都府の俳優編)

  
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