かつて日本映画の半ばを占めていた時代劇は、その大部分が京都で作られていた。古い建物などが多くてロケ撮影に有利だったということや、伝統芸能の本場で時代劇に必要な人材も集めやすいという利点があったからである。チャンバラ映画の生みの親ともいうべき大正時代の大監督牧野省三(1878〜1929年)がそもそも京都の千本座の歌舞伎劇場の主人から映画に転じた人だし、その長男のマキノ雅弘(1908〜93年)は監督として大衆演劇的な調子のいい時代劇のあり方を極めた人である。そして次男のマキノ光雄(1909〜57年)はプロデューサーとして戦後の京都の撮影所で作られた東映時代劇の全盛期を陣頭指揮した伝説の活動屋である。牧野省三の孫には長門裕之(1934〜2011年)と津川雅彦がいる。
時代劇の人気が衰えた1960年代にこの東映京都撮影所はいわゆる任侠映画で人気を保ったが、そのひとつの「日本侠客伝」シリーズ(1964~71年)を主に作ったマキノ雅弘は、これはかつて京都の侠客だった自分の伯父のところで見聞した人々の生きざまをもとにしていると言っている。昔はまともな職業であっても親分子分の関係をとって組を名乗ったり、血気盛んな若い衆が多くて喧嘩っ早かったりして、世間からはやくざのように見られる職種が少なくなかった。マキノ雅弘の伯父もそういう意味での侠客で、そうした社会史の一端が任侠映画には描き込まれていたのである。人間関係の絆の強さをドラマの芯にする時代劇や任侠映画には、家の格式や上下の絆を尊重する京都の気風はよく合ったのかもしれない。
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伊丹十三(1933~97年)は京都の撮影所で監督をしていた伊丹万作監督の息子として、映画人が多く住んでいた京都の鳴滝で生まれた。俳優、エッセイスト、商業デザイナー、イラストレーター、CM作家とじつに多彩な才能を発揮して認められていったが、筆者がその存在に注目した最初はテレビの教養番組の司会者としてである。意表をこらしたさまざまな趣向で、社会的、文化的なテーマを面白く見せて解説するのだが、彼が司会を担当する回がきわだって趣向に富んでいた。どうもあれは彼が構成や演出まで口を出してやっていたに違いない。そしてその趣向の面白さを映画づくりにまで発揮したのが監督第一作の「お葬式」(1984年)をはじめとする一連の教養番組風の劇映画だった。それがみんな工夫に富み、お洒落な感覚が愉しめるうえに笑えたのである。謎の自殺が惜しまれる。