「あの時は悔しさと焦りだけですね。そこに日本代表がいるのに自分がいないなんて。そんなものを見るのがとても悔しかったですし嫌でした。ロンドン・パラまで時間がない中での怪我でしたから、余計にそんな思いが強かったのだと思います」
入院後しばらくしてラグビー用車椅子、通称『ラグ車』で3分走を測ったところ、島川より障害の重いクラスの選手よりも遥かに低い数値に愕然とした。
その頃の島川の生活サイクルは、朝食が済んだら作業療法と理学療法を行い、昼食でいったん病室に戻るも、午後から夕方まではトレーニングしっぱなしの毎日を送った。
ロンドン・パラリンピックの日本代表の選考が2月と3月に決まり、島川は3月をターゲットに自分を追い込んでいった。
「あの時はとにかくロンドンに間に合わせなければならないという焦りが強くて、筋肉の付け方であったりトレーニング方法であったり、正しいものではなかったと今では思っています」
「筋力を戻さなきゃという思いばかりが強くて、ウエイトトレーニングに偏っていました。やはりこの競技は走り中心にトレーニングしなければいけないのです。そうじゃなければ、試合中に上手く使える身体は出来上がりません。あの時は固い筋肉をつけてしまったので、走るには適さなかったのです」
戻らなかったゲーム勘
そして世界の大舞台ロンドン・パラリンピックを迎えた。
日本代表の過去2度のパラリンピックの成績は、アテネ大会の8位、北京大会の7位ととても満足できるものではなかった。それだけにロンドン大会に懸ける思い、メダル獲得の執念は過去2大会よりも遥かに強いものだった。
しかし、スピードもチェアスキルも満足なレベルには戻らなかった。何よりもゲーム勘が戻らなかったことが致命的だったと島川は分析する。
「ゲーム中、ある場面でふいに何をしていいのかわからなくなることがありました。過去感覚的にやってきましたが、そんなことは1度もなかったことなのに……」
「チームスポーツなのでそうなると当然他の選手にも影響します。自分は使い物にはならなかったと感じています」
「自分が動けていないと感じているように、周りの選手たちもそう感じていたと思います。それを指摘する選手もいましたけど、みんな思っていても言えなかったんでしょう」
島川は少し苦しそうな表情を浮かべた。