ミリオンヒットが出ないまま3年の年月がたち、77年に誕生したのが、大ヒット曲「津軽海峡・冬景色」だった。作詞・阿久悠、作曲・三木たかし。アイドル全盛時、次々と脚光を浴びる後輩たちの中、けっして後ろ向きにならずにまっすぐ歌を求める石川を暗がりの中に確かに見ていた人たちもまたいたのである。それも本物を見分ける眼力をもったプロ中のプロである。
「阿久悠さんの企画で『365日 恋もよう』というアルバムを作って、その中から一番合う曲を探そうということになったんです。この子を、何とか光の当たる同じところにと考えてくださったんだと思います。大阪の新歌舞伎座の公演で最後の曲を何で締めくくろうか。なんせミリオンがなかったですから。そこでアルバムの中から『津軽海峡・冬景色』を歌いました。大阪の人たちが熱烈に支持してくれてシングルカットしたんです」
大阪の人が北に帰る人の歌に、日本に残る名曲としての命を吹き込んだということになる。ポップスではない。演歌でもない。でも確かに日本を貫いた日本の歌だったのだ。
上野駅、夜行列車、連絡船……なじんできた情景、心に染み込むメロディーはじわじわと、やがて爆発的に浸透し、その年の日本レコード大賞歌唱賞を受賞している。阿久悠、三木たかしの作品を受けて、歌唱で見事に応えきったという評価である。この歌は当時の時代背景を考えると、実はけっこう衝撃的な内容の歌だったと思う。歌の中でも現実でも、待つ女、すがる女、泣く女、立ち去る男を見送る女が主流だった時代に、「さよならあなた」と告げて、自分で決断して冬景色の中に旅立つ強い女を歌っているのだから。
世間が認める安心の女のイメージを真っ白い冬景色を背景に打ち破ったのが「津軽海峡・冬景色」なら、燃える紅蓮(ぐれん)の火を一緒に越えようと迫ったのが、9年後の86年の「天城越え」である。作詞・吉岡治、作曲・弦哲也。紅白歌合戦で8回も歌うことになる名曲を、石川は一度断ろうとしたそうだ。