オトナの教養 週末の一冊

2015年3月27日

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東嶋和子 (とうじま・わこ)

科学ジャーナリスト・筑波大学非常勤講師

元読売新聞科学部記者。フリーランスで環境・エネルギー、医療、生命科学、科学技術分野を中心に、科学と社会のかかわりを取材。主著に『名医が答える「55歳からの健康力」』(文藝春秋)、『人体再生に挑む』(講談社)など。新著に『水も過ぎれば毒になる 新・養生訓』(文春文庫)

 たとえば、政治家や役所が「経済成長の国策に沿った成果を研究者に求めるのは、非常に不適切」であるし、研究者が「自らの思惑であえて乗っかっていたのであれば、それがいちばんの反省点だろう」という。

 社会の側も、「科学としての筋を通そうとする努力が行われているかどうかという観点から、関係者の行く末を見守るべきだ」としている。

<この問題では、理研の対応と組織運営上の姿勢が非難され続けていて、その通りの面もある。しかし、優遇された理研の既得権の上にあぐらをかいた閉鎖的な研究者、管理者と官僚、政治家の癒着構造を叩くのと、科学としてのSTAP研究を批判することは、別の問題である。さらにいえば、撤回された論文の素材やデータの不正の実態を追求することと、「刺激惹起性多能性獲得」という仮説の科学的評価とは、これまた別の問題である。だが実際には、そうした政治的批判や不正の非難・追求と、科学面の批判が、渾然一体となって一つの流れをつくっていた。>

 そのことに危惧を覚える、という著者に、私もまったく同感である。

 科学コミュニティには、科学の本来の姿である科学研究者によるオープンな議論、いいかえれば、自浄作用を、論文の作成過程においても、騒動の渦中においても発揮してほしかった。一方で、報道には、魔女狩りではなく、研究現場の真摯な努力を支持する態度が必要だった。

 著者も、次のように指摘する。

<学会が主催して学術集会を開き、STAP仮説の当否と検証実験の科学的必要性・妥当性について、渦中の当事者も分け隔てなく参加できる雰囲気の下で、徹底的に討議できる場を設けてもらいたかった。それでこそこの「世紀の研究不正」事件を、「科学史に残る意味のある」騒動にできたのではないだろうか。>

科学研究の「第三の道すじ」

 科学研究者とは、人間独特の「科学する欲望」の充足を社会から付託された存在だと、著者は定義する。

 社会からの付託に応えるために科学者が守らなければならない規範(研究倫理)の要諦は、「科学的に必要で妥当なことしかしないし、させない」ことである。その要諦が守られているかどうか、個々の研究計画について徹底的に相互批判する自由が保障されていることが、科学する欲望の充足を研究者が業として行うことを社会から認められるための、最も基本的な根拠である、と著者は説く。

 「実利」と「倫理」、いずれかの側面でしか語られてこなかった科学研究は、本来のありようから大きく逸脱してしまった。そんななか、「科学する欲望」を付託された者と、付託した者との関係性から科学を捉えようとする著者の「第三の道筋」は、明るいものに感じられる。

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