松下少年は、子どものいなかったおば夫婦に可愛がられ、練馬区にもあったアメリカ軍施設グラントハイツにも行ったことがあるという。「兄と二人兄弟だったのですが、僕の方がそういうところが好きで。よく泊りがけで出かけました。中はアメリカなんですよね。ハンバーガー食べたり、コーラ飲んだり。日本の子どもがまだ体験できなかったようなことができた。それに父親が趣味でカメラをしていて、いろんな写真を見せてくれたし、一緒に撮影しに出掛けたりもしてたんです。あと映画が好きで休みの日に連れて行ってくれて。まあ、アメリカナイズされた少年でした」と回顧しながら語ってくれたが、その時の思い出が松下さんの中に大きく残っており、今また横田基地の近くに住んでいるという。
悪くはなかった独立時から一念発起し、
『POPEYE』の表紙を飾るまで
「イラストレーターとしては、遅咲きのほうです。24くらいでとりあえずフリーランサー始めましてね」と話す独立当時は、まだコンピューターのないアナログな時代。カタログや雑誌を作成する仕事で、写真を撮るためのスケッチを多く描いていたという。「カタログの仕事なんかは大量にあったので、収入は悪くなかったんです。でも、20代後半になって、これからどうしようかと考えたんです。『まあいいかな』と甘んじたくなる気持ちもあったんですが、このままやっていても自分の名前が出て行かないと思ったんですよね」
「当時イラストレーターと言ってもまだステータスのあるような職業ではなかったので、ネームバリューをつけていかないと大きな仕事がもらえない。それで、『出版関係の仕事をしなくちゃいけない』と思って、挿絵やイラストを出版社に売り込みに行きました。また、その頃エアブラシの技法に興味を持ち、試行錯誤の末、独学でマスターしたんですよね」
そうして旅の雑誌やファッション誌に描くようになったイラストが、今から37年前、『ポパイ』の石川次郎副編集長の目に止まった。「『2日間で表紙を描いてくれる?』って言われて描いたのがメジャーリーグ・ベースボールの絵。あれがなかったら今はないですよね」と松下さんの目尻に深いシワが刻まれる。1978年の当時、『ポパイ』の定価は230円。「西海岸ブームなど社会的な影響力のある雑誌で、『これから忙しくなるよ』と石川さんに言われた通り、その後すぐに自動車メーカーや飲料メーカーなどからお仕事をいただくようになりました」