2024年4月27日(土)

いま、なぜ武士道なのか

2009年10月24日

(現代語訳)
五・六十年前までの武士は、毎朝行水をして身を清め、髪を整え、また髪に香をとめ、手足の爪を切って軽石でこすり、こがね草でみがき、身なりを整えた。特に式具一式は、錆(さび)をつけないようにし、ほこりをはらってみがきたてておいた。身だしなみを整えることは、一見伊達者のように見えるが、そうではない。今日は討ち死にかと、いつも必死の覚悟を決めているからで、もし乱れて討ち死にでもすれば、日頃の覚悟もあやしまれ、敵にはさげすまれ、見苦しい限りである。だから老人も若者も身だしなみに気をつかったのである。
これはいかにもめんどうで、時間もかかるように思うけれども、武士の仕事とはこのようなことなのである。ほかに忙しいことや、手のかかることはないのである。
常に討ち死にする覚悟を決め、そのことに徹し、死ぬ気になって奉公につとめ、武道に励むならば、恥をかくことはない。このようなことを全く忘れ、欲得や自分勝手に日を送り、何かにつけ恥をかき、しかもそれを恥とも思わず、自分さえよければ人はどうなっても構わないなどといって、勝手気ままに振る舞うことは、まことに残念なことである。
常日頃から必死の覚悟がない者は、往生ぎわも悪い。また、平素から必死の覚悟でいるならば、どうして賤(いや)しい振る舞いができようか。このことをよくよく肝に銘じておかなければならない。
また、ここ三十年来、人々の気風も変わり、若侍の出会った時の話は、金銭の話か損得勘定のこと、また家計の話、衣裳の吟味か色欲の雑談ばかりで、こうした話題でなければ座が白けてしまうと聞いている。なさけない風潮となったものである。昔は、二、三十歳までの者は、もとより心の中に賤しい考えをもっていなかったので、言葉にも出なかった。年輩の者が不用意に口をすべらしても、失態のように思われていた。
今の世間は派手になり、暮らし向きのことばかり大切に考えているからこうなったのであろう。自分の身分にふさわしくないぜいたくさえしなければ、どうにかやっていけるものである。また、近頃の若者でしまり屋を、しっかり者などとほめるのは浅はかなことである。しまり屋はとかく義理を欠く。義理を欠く者は下劣な人間である。

 かの時代の気風と現代の気風にどこか似たところがある。例えば金銭の話や衣裳・色欲の雑談がとり上げられているが、今でもそう大差はない。これはその時代に国家としての目標がないからだと識者はいう。またある人は、価値観が多様化したからだという。たしかにそういう面はあるだろう。しかし、国家の目標などというものは簡単にできるものではない。むしろそれ以前に自己に目標を設定する努力のたらなさの方が大きいのではあるまいか。その原因は物質的豊かさの中にある。つまり、死の覚悟などと大げさに構えなくても生きていけるからである。好きなことをやり、いやになったらやめてしまう。何もまとまったことができない。そしてその責任を自分で負うのではなく、社会に攻撃の矢を向ける。自分を反省する前に他を責める。そんなところから住みよい社会ができるわけがない。しかし、本来日本人はすぐれた民族である。昨今の話の中には、戦後初めてとでもいうべき民族としての自覚と反省が生まれつつある。着実に新しい民族の歩みが始まっていることも確かである。

 ほとんど不可能と思われていた憲法改正、国産ロケットの開発、東海道リニア新幹線など、日本民族の自覚を導きだす大事業が話題にのぼりだした。一部には平和と叫んでさえいれば平和が天から降ってくるようなノドカな諸氏もいるが、それも懐かしい夢になるだろう。日本国が米軍の核の傘のもとに保護されている現実は、だれも否定できない。そのことを忘れているのか、忘れさせられているのかは知らないが、ともかく世界の現実をしっかり見据えなければならない。それを支えるのは武士道以外にはない。ここに『葉隠』の登場する必然性がある。日本が国家として自立するには、武士道を学ぶことが必要である。

 

◆『いま、なぜ武士道なのか―現代に活かす「葉隠」100訓』

 

 

 

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