大学卒業後は帝京大学附属高校の体育の先生になり、生徒に心底から慕われていました。そして日米親善高校レスリング大会の日本側監督として米国遠征をして、35歳くらいのときにはNHKテレビにレスリング解説者として登場し、われわれ同窓生をあっと驚かせました。「450人の中の出世頭だね」と、同窓会で皆が言っていました。
ちょっと横道にそれますが、このコラムの(その2)で登場した同窓の経済学評論家が、谷口君から聞いたという話が一つあります。谷口君がレスリングのほかに、ボディービルをあるジムに習いに行っていたときに、三島由紀夫さんが寄ってきて「谷口さん、あなたのような立派な体になるにはどうすればよいでしょうか?」と聞いたそうです。この経済学評論家は当時から大の三島ファンなので、この話をよーく覚えているのです。
こんな優しくて力持ちの谷口君も、たしか40歳くらいの若さで、心臓の病で急逝しました。学力のずば抜けた下君、体力のずば抜けた谷口君。二人とも私にはとても敵わぬ人格者の友でした。
大人になってからの「友」
「友」について思いを巡らせるとき、ある印象的な記事がいつも頭に浮かびます。著者の山田太一さんが一も二もなくOKしてくださったので、全文を引用させていただきます。
「友人の基準」 シナリオライター 山田太一 著 学生のころは、友人との関係が社会であり人生であり喜怒哀楽の大半でもあったが、仕事につき世帯を持ち子供を育てている間に友人との距離はどんどん遠くなり、気がつくと親友と呼べるような人がひとりもいなくなっていた。私はそれを自分の人格的欠点だと考えはずかしくも思ったし、親友がいるようなふりをしたこともあった。 四十代も半ばになって、ようやく自分が厳密すぎるのだということに気がついた。こんなことはわらうべき世間知らずで、書くのがはばかられるが、長いこと私は、親友というものを学生のころのそれを基準にして考えていたのである。 いくら話しても話し足りず、別れがたく、なんでも打ちあけ、傷つけ合い、というような関係が親友同士だと思っていた。そんなつき合いが、職業を持ち妻子をかかえてからの男同士にまずあるはずもない、もしあったとしても、かなり特殊なことだということに、長いこと気づかずにいたのである。 だから旧友と逢うたびに、昔に比べて距離が出来てしまったことが気になり、仕事を持ってからのつき合いも、お互いの水くささばかりに敏感で、どうもこの人を友人とは呼べないのではないか、などとすぐ思い、気軽に「あの人も友人、この人も友人」などという人に、ひそかに嫌悪を抱いたりしていた。 七、八年前、旧友二人とのんでいて、急に自分は一人ではないのだ、という感情がこみあげたことがある。こういう友人がいるのだということに深く慰さめられていた。しかし、彼らはその時私のかかえていた厄介についてなにも知らず、雑談をして別れた。この程度なのだな。大人になってからの友人というものは。これでも親友と呼んでもいいのかもしれないな、とその時漸く青くさい偏屈から脱け出した思いがあった。いまはなんとか「友だちはいますよ、いっぱい」などといえるようになっている。 ――1987年3月10日 日本経済新聞 最終面「交遊抄」
この優れて素直に綴られた文章に、私はとても感激しました。