2024年11月26日(火)

ペコペコ・サラリーマン哲学

2009年12月14日

 しかし彼は、その2~3週間後のある日突然、長野市にいた私たち(母、姉、私)の前にボロボロの服で現れました。全身引っかき痕がありましたが元気で、姉は涙をボロボロ、母は息をのんで喜びました。二人は翌年結婚し、3人の子が生まれました。義兄は今から20年前に天寿をまっとうしました。

 先の週刊ポストの記事には次のような記述があります。

  『庄原市の歴史』は綴る。
  「ホームにはコンクリートの上に何も敷かずゴロ寝させ、全く足の踏み入れる余地がない。その上、なんとも言いようのない悪臭が付近一帯に充満した」
  原爆投下2日目の記述である。

 義兄のいた校舎の爆心地側の壁が、たまたま土の白壁だったということを人づてに聞きました。それが閃光や放射線を遮ってくれたおかげで、義兄は助かったのでしょう。義兄は、ガレキの中から一点の空を頼りに這いだして、広島の惨状そのものを目のあたりにし、汽車と徒歩で何日間もかけて長野市までたどり着きました。しかし、広島の状況について、少なくとも私の前では一度も話したことがありません。話すのに耐えられなかったからかもしれません。おそらく思い出したくもない辛い光景をたくさん見たのでしょう。しかしこれも、私が想像しているだけです。

 亀井君のお姉さんがどうされておられたのか、ご家族がどのような気持ちでいらしたのか、私には知る由もありません。 

 群馬の士官学校に通っていた次兄・功は、終戦直後の8月16、17日頃だったと思いますが、長野市にやってきて、家族の前で「上官たちがみな切腹すると言っている。自分も切腹する」と言い出しました。本人が前年に恩賜賞をいただいていたことも、切腹に対して真剣であった理由の一つのような気がします。

上・恩賜賞の銀の文鎮
中・高松宮殿下ご列席で行われた恩賜賞授賞式(敬礼しているのが功氏)
この授賞式(卒業式)には父、母、長兄、姉、私(7歳)が参列した
下・父あてに届いた恩賜賞授賞式の招待状

 長兄は「そこまで言うなら切腹しろ。ただし、お前は最下位の将校だから、まわりを見渡して、一番最後に切腹しろ」と言いました。結果として、トップの中将以下30人くらいのうち切腹したのはトップ1人だけで、次兄は切腹しませんでした。切腹を決心したときに、次兄がしたためた文面を写真で示します。


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