変化し続けながら進む
日本全国共通の安心の価値観の中に身を置いて勅使川原と向かい合うと、深い森の中をさまよっているような気分になるが、それらを捨てて縦横無尽に展開される話に溶け合うと、刺激的で興味深く実に楽しい時間になる。勅使川原を既存の感覚の範囲内で理解しようとしても無理なのである。単にややこしくて変な人になってしまう。
「子どもの頃から、変な子と言われてましたね。考えるのが大好きで、父から子どもは普通そんなに考えないものだと言われると、本当にそうなのかってまた考えちゃう。でも真剣に考えて、考えたことを学校で先生やみんなに話すと全部否定される。だんだん棒っきれみたいな気分になってきてね。そこに自分がいると思われるのがイヤになって、気配を消してじっとしていたりね」
絵で自分を表現しようとしたが、ある時、手を素描したら先生に輪郭をはっきり濃く描くように指導された。手をじっと見ていても、空中と手の境目なんて黒い線で輪郭は描けない。輪郭などなくてもいいんじゃないかという少年の思いは、先生と生徒という関係の中では一方的に排除されていく。やりたかった絵もやらなくなった。
「評価してもらうとか判断してもらうことがだんだんイヤになっちゃったんだね」
自分というものを持て余していると、人との距離がとれない。このままでは就職することも人と関わりを持つこともできない。
「何かを表現しようにも自我をどう扱ったらいいのかわからなくて切羽詰まった時、外側の素材とかモノとか人との関係で何かを表現するのではなく、自分自身が素材になればいいって気がついたんです」
自分を客体化して、自分と自分が会話しながら自らを素材として自在に扱うことで表現する。それがダンスだった。表現をすることは、勅使川原にとっては生きることであり、その生きる道を探し当てたのは20歳の時。即刻電話帳でバレエ教室を探したのが、勅使川原のダンサーへと続く道の第一歩になる。
「いくら作品を作りたい、表現したいという気持ちがはやっても、技術がないと素材としての自分の身体を扱えない。古典的な技術をまず徹底的に勉強しようと頭を切り換えて、10年はひたすら稽古をしました」
本格的に作品を発表するようになったのは30歳からである。