2024年11月22日(金)

したたか者の流儀

2016年8月16日

 日本やドイツと同様に遅れて帝国主義を標榜した米国は、カリブ海や太平洋にしか進出の余地がなかったのも事実である。ハワイを権謀術数で手に入れ、フィリピンも入手している。フィリピンは人口も多く戦闘的な種族もいたことで、米国はそれなりに苦労をしている。犠牲も払っているようだ。よその国に入って犠牲というのもおかしいが、現地の部族が竹槍や鉞で抵抗してきても多勢に無勢となる。

フィリピンの初代総督

 あまり語られていないが、ダグラス・マッカーサーのお父さんは軍人で初代のフィリピン総督であった。したがって、マッカーサー家はフィリピンと因縁があることになる。これもあまり知られていない。教えたくないのかもしれない。米国のような民主主義を標榜する国がアジアの国を支配し総督を配していたなど、口が裂けても言えない話なのだろう。その原体験からマッカーサーは日本を見くびっていたという説もある。しかし、その後の戦いぶりで、一目は置くが仕返しも忘れてはいなかったようだ。“I shall return!”は実行された。

 コルト45は連射力と破壊力のある拳銃として有名だが、これもフィリピンの鎮圧目的で開発・製造されたそうだ。マッカーサー父の時代のことだが、大勢の反乱軍が槍を持って迫っても、コルト45が火蓋を切ればさすがに後ずさりしたそうだ。それまでの拳銃では、抜刀して進んでくる勇敢な先住民のモロ族には対抗できなかった。そんな経緯のある土地での総督を父親に持つのが、日本占領の総大将ダグラス・マッカーサーだ。

 フィリピンから一旦は追放されたマッカーサーがこだわった現地での雪辱戦は、戦史家によれば不要であったようだ。50万人もの戦死者のうち大半は餓死や病死というロジステイック問題のある日本軍と、戦略ではなく、単にリターンマッチをした米軍ともにフィリピンでの戦ったことに意味を問う必要があるかもしれない。

 ハワイの二世と話をするとその引きずった方言のせいか、のどかでよい気分になる。現地のマウイ人もその愛嬌に目を細めてしまう。

 一方、中近東時代、個人的に6年間もフィリピン人女性を秘書としていたがすべて完璧であり上手に英語のビジネスレターをしたためることが出来て本当に重宝した。彼女たちが時々語るタガログ語を聞くと、同音の繰り返しが多い言語で、教養のある立派な英語力との落差に少しだけ驚きを感じた。

 残念ながら、彼ら彼女らと米国や日本のしたことについて話す機会は全くなかった。話したとして、本当のことを語ることはないかもしれない。特にフィリピンでは、日本軍人およそ50万人が命を落としているが、フィリピン人はその二倍の100万人もの人が犠牲になっていることはあまり知られていない。当方は、とりわけ反米・親米ということはないが、8月という月に、これらの事実も確認したいと思うが。合点でしょうか。

  
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