ロンドンでホーチミンが働いていたケーキ屋とか、パリだとレーニンが下男をしていた家と記された金看板を見た気がする。我パリオフィスの近くにはトロツキーが住んでいた部屋があった。これは確かだ。6区アパルトマンの裏側には、ピカソが大作のゲルニカを製作したアトリエがあった。数分のところにはオスカーワイルドの臨終の定宿もあった。町内にはゲンズブルグの住処があった。
欧州の都市には後年名を成した人の足跡が多く残されている。石の家なので、数百年はさかのぼれる。ちっとした建物の入り口に由来の書いた石板が打ち込まれている。とはいえ、パリでのヘミングウェイの足跡はやりすぎ感もある。その辺のバーやカフェまで、ヘミングウェイがお座りになった場所という金具がついている。
パリの有名ホテルの入り口には、占領時代にドイツのゲシュタポの本部が置かれていたという表示まである。地下の拷問部屋は開かずの間となっているが、夜中にうめき声が聞こえると言われている。
神保町の中華料理店
さて、わが日本国も、明治以降アジアからの熱い人々が亡命や留学でやってきたのは事実だ。新宿中村屋のインド人ボースは有名だが他にも、朝鮮半島から金玉均が日本にやってきている。辛亥革命の孫文と比べて引けを取らない人物であったという話もある。孫文の日本滞在は有名であるが、残念ながら金玉均は歴史家しか知らない。
周恩来も早稲田の校歌が歌えたらしいが、早大入学の記録はないようだ。神田神保町は、彼らのたまり場で、いまだにその歴史を引く中華料理店が何軒か生き残っている。人々はみんな鬼籍に入ってしまった。その手の人物で存命は京都大学留学のスーチー女史くらいであろうか。今よりもはるかに田舎びていた日本を小西洋と慕ってやってきた偉人達を思うと昔日の感がある。
今回、香港、上海、台湾で、日本に留学したい青年たちと面接してきた。かなりの人数の青年と直接面談したが何か違う。若者に対していつの時代もロートルは何か違うと難癖をつけるが本当に何かが違うのだ。日本語の特殊性は100年前から変わっていない。
中国で海外に大学生の留学斡旋をしている組織の方と本件で話をした。現在中国から外国の大学に留学する学生数は毎年、50万人だそうだ。日本の新年度の大学生はおおよそ50万人とすれば、日本の大学一年生と同数が中国から海外の大学に出ていることになる。
そのうち、日本を目指す留学生およそ4万人だそうだ。大きな数字であるが、小さな数字でもある。日本の新入学生の8%が中国人留学ということになるが、明治の時代には、孫文までやってきた国としてはもう少し存在感があっても良いのではという気もする。
果たして将来名をなす外国の青年が現在の日本に来ているだろうか、とても心配になる。周恩来やボース、孫文や金玉均は日本語ができたとは思わない。言葉の壁を乗り越えてでも日本が魅力的であったのであろう。