字が読めるようにという目的なら、小学校で達せられたのでは?
「やはり1階と3階では見える景色が違うように、大学へ行ってもっと広い世界を見てみたいという気持ちが強くなりました。私の町から大学に行ったチベット人はほとんどいませんでしたから、大学に行けば故郷のために何かできると思いました」
300キロ離れた高校に入学し、下宿生活を送った。22時消灯で、公衆トイレだけ夜通し明かりが灯っていた。本とノートを持ってトイレに籠り、氷点下何十度にもなる冬は、かじかむ手を口の中に入れて温めながら勉強した。ヤンジンは先生になりたかったが、音楽の先生の勧めで四川音楽大学に進む。チベット人の入学は初めてで、蛮子(野蛮な子)とあだ名をつけられ、ずいぶんいじめられたという。「やめたいと思ったけど、もし兄に『俺は何のために我慢している』と言われたら、返す言葉がないなと。きれいな服は持っていないけど、勉強なら負けないと思って頑張りました」。ヤンジンは卒業後、音大の講師に指名された。
家族にとって、ヤンジンが希望の星であった。両親が悔しさを常に語り、兄も含めて「自分たちは頑張るから、あなたも頑張って」という姿を見せたことで、ヤンジンにもその期待が伝わっていた。
私も両親のようになりたい、
チベットに学校をつくろう
講師の時に日本人留学生の男性と出会い、26歳で結婚して来日。職を辞すことに迷いはあったが、夫の実家での生活を始めた。あらゆる面であまりにすばらしい日本に驚き、なぜこんなに成功したのか、疑問が湧いてきた。
「お父さん(義父)に聞くと、教育で知識と技術を身につけたからだと。お母さん(義母)からは、戦争でつらかったけど湯川秀樹さんのノーベル賞でみんなが希望を持った、だからあんたもチベットの人に希望を与えられるように頑張れと、励まされました。私の両親は、学校に通わせることで、私にきっかけを与えてくれた。私も両親のようになりたい、チベットに学校をつくろうと、考えるようになりました」
でも、どうしたらいいのかわからない。ハンバーガーショップのアルバイト代を貯め、会社員の夫の給料もこっそり拝借。「寄付なんて聞いたことなかった」そうで、ある同郷会に出席する知り合いに声をかけられ、そこでチャリティコンサートを催している日本人に偶然出会い、その縁でヤンジンは歌い、さらに講演をする場を得られるようになった。
こうして貯まった320万円で、1999年に1つめの学校が完成した。その後もチベットの、学校がないエリアに9校をつくった。いま学んでいる子どもは合計で約3000人。片道1日をかけて学校に通ってくる子もいる。当然、寮生活だ。
「私も毎年チベットに行って、学校を回ります。子どもたちは、私のことをすごく待ってくれています。『お姉さん、私これ、読めるようになったんだ』と文章を読んでくれる時が一番うれしいです」。写真の中のチベットの子どもたちは、みな目をキラキラさせていた。
貴重な労働力である子どもを、学校に行かせない親もいるのでは?