大学時代は苦学生で銀座のキャバレーでアルバイトをしていたこと。別府化学工業(現・住友精化)を経て警察庁に入ると、キャリアとしては異例で連合赤軍あさま山荘事件や成田空港事件などさまざまな事件現場に関わったこと。1979年に衆議院選挙に初出馬すると、地盤も看板もなく、泡沫候補と揶揄(やゆ)されたが仁義ある人々が手弁当で応援してくれて、奇跡の当選を遂げたこと。わがままだから、最初の奥さんには逃げられて、給料の半分は二人の子どもさんの養育費として送っていたこと、だから再婚した今の奥さんには苦労をかけたこと・・・二世や三世が多い現代の政治家のなかでは、とても苦労していることがわかります。
お父さんの存在
亀井君の頑張りの背景には、お父さんの存在があるのかもしれません。「亀井静香公式Webサイト」で亀井君が熱唱する「おかあさん」という歌には、おとうさんについて触れた箇所があります。人の幸せを妬まず、むしろ人に幸せをあげるような男になれと、お父さんは涙で教えてくれた、という内容です。
以前も引用しましたが、週刊ポストの記事(2009年11月13日号、「ニュースを見に行く! 現場の磁力」山藤章一郎と本誌取材班)によると、亀井君のお父さんは、これまた大変な苦労人だったようです。
大臣はぐすっと洟(はな)をすすった。♪おなか こわすなぁ 風邪ひくなぁ(筆者注・「おかあさん」の歌詞)を歌う心持ちを尋ねた。 ――週刊ポストの記事(2009年11月13日号)より
「私はね、親が寝ている姿を見たことがない。下から数えた方が早い貧乏だ。働きづめで財産なし。せめて子どもには教育をのこそうと、4人全員、都会(広島)に出し、賃仕事で仕送りしてくれて。故郷と親が私を育ててくれたの」
(中略)
父・素一は役場勤めをするかたわら、川沿いの4反3畝を耕したが、親子6人それでは食えぬ。
夜なべに束木をした。山で伐ってきた木を、前腕ほどの長さに挽いてたばねる。それを束木買いの男に売る。1束30~40円になった。
老婦人の話のつづき。
「そん束木や、蚕の糸つむぎ、縫い物の賃仕事で、子どもを広島に出し、男の子ふたりを東大にいかせたんじゃ。昔の親はえらいの。応える子どももえらい(略)」
このコラムの第12回で少し触れましたが、私の父は、亀井君のお父さんのように生真面目な働き者ではなく、むしろ山っ気のある人でした。
私は父54歳、母41歳の子で末っ子です。父・辰三郎は明治16(1883)年生まれ、母・きよしは明治29(1896)年生まれです。
父は長野市大字小島の農家の生まれで九男だったので、大正時代の初めに、栃木県の西那須野の現在の御用邸のすぐ横の原野の屯田兵のような農業(明治初頭の北海道の屯田兵に近い開墾者)を始め、しばらく後、西那須野小学校の教員も兼業としました。その小学校の周囲に、父が、今から85年前の昭和のはじめに植えた桜の木が大きくなっているはずです。「はずです」と申しますのは、私の子どもの頃に父母からその話を何回も聞いただけで、自分の目ではそれをまだ確かめたことがないからです。
私の生まれる10年も前のことですが、父は、3ヘクタールもキャベツを作ったのですが、最後にキャベツがまるまらなかったことが原因で失敗となり、家族ともども、栃木から東京へ出てくることになったのです。
父に関しての思い出は母ほど多くありません。私が物心ついた時にはすでに60歳ぐらいで、白髪の坊主頭でした。銭湯に行くときに、「おふろではおじいさんと呼べ」などと言われましたが、当時5、6歳の子どもにはそれはできませんでした。ちょうどそのころ、模型のグライダーを一緒に作ってくれたのをよく覚えています。