(写真・TOKYO METROPOLITAN GOVERNMENT/JIJI)
富豪への近道「無人島探検」の広がり
明治初期まで、秋になると日本周辺の無人島には、数多くのアホウドリが飛来していた。この鳥は両翼の長さがおよそ2・4メートルという太平洋で最大級の海鳥で、人間を恐れないことや、飛び立つ際に助走が必要なこともあり、簡単に捕獲された。
1876年(明治9年)に、わが国の領土になった小笠原諸島でも、多くのアホウドリが生息していた。しかし、移住者の急増とともにその多くは捕獲され、羽毛は横浜の商人に売られ、卵は本土に移出された。
当時、小笠原開拓に従事していた八丈島の大工、玉置半右衛門は、いち早く、このアホウドリの価値に注目した。1887年(明治20年)、島が真っ白になるほどアホウドリが飛来する伊豆諸島南端の鳥島に進出し、組織的なアホウドリの捕獲事業を開始している。
その捕獲方法は、棒を使った撲殺で、1日に一人当たり100羽、200羽は容易に捕獲でき、1902年(明治35年)の鳥島大噴火までの15年間で、およそ600万羽を捕獲した。その羽毛量は1200トン、売上金額は約100万円で、年平均にすると約6・7万円であった。当時の総理大臣の年俸が1万円の時代にである。玉置の年収は4万円程度であったと推測されるが、これを現在価値に換算すると10億円である。アホウドリを撲殺して羽毛をむしり取るだけの玉置の事業は、莫大な利益をもたらしたのである。
大富豪になった玉置は、『実業家百傑伝』(1892~93年)などの立志伝に名前が挙げられるなど、実業家として、一躍、時の人になった。さらに、著名なジャーナリストの横山源之助は、1910年(明治43年)刊行の『明治富豪史』の中で、富豪になる方法として、御用商人、土地成金などとともに「無人島探検」を挙げている。当時、アホウドリの捕獲は、富豪になる方法の一つであった。
危険を顧みず我先にと進出
東はハワイへ、西は南シナ海へ
1891年(明治24年)5月30日付の読売新聞は、「南洋に豊土ありとは、近頃の流行語にて……」と南洋探検ブームを報じた。豊土とは、小笠原諸島の南東に存在するというグランパス島のことである。当時の地図には、このグランパス島のように存在が疑わしい島(疑存島)が多数描かれていた。玉置の成功に刺激された人々は、鳥島にあれだけのアホウドリがいるならば、地図に記載されている太平洋上の島々には、さらに無数のアホウドリがいるのでは、と考えたのである。