橋場日月の戦国武将のマネー術

2016年11月17日

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 「これから信長様の仇を討つ大戦(おおいくさ)に向かう!」と宣言している秀吉だが、それとともに周囲には「大博打をうって見せてやる」と洩らしていた。

 大博打とは、言うまでもなく天下取りの事だ。いちはやく信長の仇・明智光秀を討ち取り、秀吉が天下を取れば、家来たちも、兵は将に、将は大名に成り上がるのも夢ではない。大金とともに大いなる夢をも共有した秀吉軍は、熱狂とともに上洛し、6月13日京の南で明智軍と激突し光秀を敗死させる。秀吉の大盤振る舞いが生んだ勢いが、光秀を圧倒したのだった。

 このあと秀吉は織田家の跡継ぎを決めるために織田家重臣が集まった清洲会議で織田家の運営の実権を握り、翌天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いで織田家の筆頭重臣・柴田勝家を撃破。四国征伐、九州征伐、小田原征伐、奥羽平定と順調に勝利をかさねて、天正18年(1590年)、ついに天下統一を達成する。

 前回紹介した「金銀山野に涌き出で」という日本各地のゴールドラッシュは、この頃ピークを迎えた。

 秀吉が天下を取った事によって日本全国の金山・銀山で採鉱された金銀も税として大坂城へと運ばれて行く。それがどれほどの量だったのか、『慶長三年蔵納目録(けいちょうさんねんくらおさめもくろく)』という史料が残っているので見てみよう。

 全国の金山からは3391枚の金子、そして銀山からは74貫2020匁の銀が、慶長3年(1598年)1年分として豊臣家の金蔵に納まっている。先にも述べたように金子1枚は小判10枚だから、こうして秀吉のもとには江戸時代の千両箱で34箱分の金が毎年入って来たのだ。

 そのうえ、秀吉は自然に転がり込んで来るこの金銀だけで満足してはいない。彼は全国各所の直轄領を管理する代官に指示して、その地域の産物が相場より安ければ秀吉の権威で独占的に買い上げ、相場が高い地域の直轄領に運ばせたうえで、そこでも独占的に売りさばいた。言うならば絶対失敗しようのない商売。

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