秀吉はとにかく一般の「陽気で豪放」というイメージと違い、なんでも事こまかく把握して自分で指示しなければ気が済まない男だ。今年の春に初めて公開された書状でも、伊賀で木材調達をしていた家臣の脇坂安治に対して9回も「材木送れ」「材木運送がはかばかしくないのはけしからん」と書き送るほど容赦なく微に入り細をうがって命令している。そんな男が、絶対成功するビジネスモデルを運営するのだから、儲かってしょうがない。利益がドンドン秀吉の懐に入って来る。
こうして豊臣家のものとなった金銀は、秀吉の道楽にも使われた。道楽というのは聚楽第、伏見城、方広寺などのハコモノ事業を指すのだが、秀吉と全国の大名が消費した金銀は天文学的な額にのぼるだろう。
その結果、空前の規模の金銀が世間に流通する事になった。全国規模で物資の独占買い付け・独占販売がおこなわれて価格が操作され、金銀の流通量が爆発的に増える。この2条件が揃うとどうなるか。起こるのはインフレだ。
「太閤検地」を実施した意図
この時代の銭は中国から輸入されたものが使われていたが、公式な貿易の途絶や倭寇鎮圧で新たな銭貨は常に不足気味だった。混乱の第一歩は銭の価値が上がったことから始まる。銭が上がって相対的に銀が下がったことで銀決済メインの体制だった当時の経済に大混乱が生じた。
こうなると上がったはずの銭の価値までが混乱に巻き込まれて下落し、天正2年(1574年)から天正18年(1590年)の17年の間に、銭1貫で買える米の量は4分の1近くに減ってしまった。ただでさえインフレによって金銀の価値が下がった上、上がるはずの銭までインフレの波に飲みこまれていく。経済の仕組みが壊れていく様子が目に見えるようではないか。
秀吉が「太閤検地」を実施して全国の田の生産量を貫高(土地の生産力を銭で表す)から石高(土地の生産力を米の量そのもので表す)に大転換したのも、豊臣ビジネスモデルを適用するため、他国と統一の基準を設けて、他国へ米を回送販売できるようにシフトするとともに、銭に頼らないシステムが必要になったためだとも言えるだろう。
秀吉が文禄の役・慶長の役を起こしたのは、朝鮮半島を経由して中国を征服するためではなく、その本当の目的は外征によって日本経済の混乱を建て直そうとしたからではないかとさえ考えられるのだ。結果的にこの朝鮮出兵の失敗が、関ヶ原の戦いに結びついて豊臣家の滅亡のきっかけとなるのだから、秀吉のインフレ政策は自分の首を締めてしまった。
参照文献:『太閤史料集』(人物往来社)
『新編 日本史辞典』(東京創元社)
『読史備要』(講談社)
『秀吉からのたより』(たつの市立龍野歴史文化資料館)
(イラストレーション・井筒啓之)
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